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第4話
気温が上がらなくなってきた。このくらいの気候が過ごしやすくて好きだ。世界が一斉に沈黙するための準備をしているようで。
家を空けないと彼は訪ねてこないので、私はただそのためだけに出掛ける。ほんの数分でも、あり得ないが一週間留守にしても同じだろう。私が不在になったというその僅かな隙間を彼は感知できる。軒下で家の外壁に寄りかかり、私に向かって第一声を発するタイミングをはかっている。
合鍵、と思ってすぐにそれを改める。彼が欲しいのは私の家の合鍵ではない。カネなのだ。カネを欲する理由はわからない。借金返済。生活苦。ただの趣味。どれも違う気がする。彼がカネを欲する理由はもっと生理的なもののように思える。カネを食べて生存している怪獣がいたが一番近いのはそれだろう。もちろんカネを欲する理由を問うたこともある。
「せやから、生活費」
彼は間髪入れずそう答えた。不当に問い質しても不可能だ。彼は言いたくないことは絶対に言わない。以前、冗談で余分にカネを渡すから自分のことについて話して欲しいと言ってみたことがある。
「魅力的な提案なんやけどそら無理やわ。そんなん調べたったらええよ。調べられるんなら、の話やけどね」
「どういう意味?」
「深読みしたって」
調べるといっても、私の独力では不可能なので自動的に外部機関を頼ることになってしまう。そうなると人に会って話さなければならない。そんなことをするくらいなら知らなくてもいいや、という気になってくる。それが彼の狙いだったのかもしれない。
石畳を抜けると彼はそこにいる。
「遅いよ」
「また、なくなったの?」
彼の第一声に対する私の返答は、何度か同様の会話をして最適化されて残った可哀相な成れの果てである。では、そもそも最初はどういう受け答えがあったのか。
「遅いよ」
言葉が出なかった。
彼と初めて会った日から一週間経っていた。ようやく私は布団から離れても平気な時間が布団に密着する時間よりちょっとだけ長くなり、散歩と言い聞かせれば靴を履けるまでになった。そうはいっても、破裂寸前の風船を放っておけばいずれ空気が抜けてしぼんでしまうだけのことで、混乱状態の根本が解決したわけではなかった。解決する気もなかった。時間が経てば忘れてしまえる。それだけを頼りに相変わらずぼんやりと過ごしていた。
だから彼の再来は、いわばせっかく塞がりかけたかさぶたをむしりとるがごとき乱暴なものだった。私は呼吸困難になりそうだったがやっとの思いで鍵を取り出して家に入ろうとした。
「こないだもろうたカネな、なくなってん。せやからまたもらいに来たわ」
「帰ってくれないかな。おカネだったらいくらでもあげるから家の中まで入ってこないで」
「そんなん、かつあげと同じやん。俺は不良やないし強盗でもあらへんの。もろうたカネの分は働くわ」
私は玄関のドアを閉めた。しかし無駄だった。カギをかけるのを忘れていたのだ。うっかりを通り越してアホとしか思えない。よって彼は入ってきた。
「帰ってくれ」
「こないだ幾らもろうたか知ってはるん?」
私は財布ごと彼に渡した。投げ捨てたといったほうがいいかもしれない。トカゲの尻尾切りだ。だが彼は財布には目もくれずずかずかと上がり込んできた。
「それ、クイズにしよか。当たったら俺はすっぱり帰るえ。もうおっさんとこ来るんやめるわ」
そう言うと彼は、こともあろうに私の家の中を掃除し始めた。どこからともなく掃除機を探し当てて部屋中を駆け回った。確かに家の中はほこりだらけだった。散らかるほど物がないので散らかってはいないが、裸足で歩くと足の裏に何か海草のような物体が貼り付いて限りなく不快な床になっていた。だがどうして彼が私の家を掃除してくれるのかがわからない。頼んだ憶えはない。頼んだ?
「もしかして」
「ん? まさかおっさん、憶えてへん?」
彼によると、私は先週うわ言で部屋の中の掃除を頼んだらしいのだがそんなことは知らない。私はそう主張した。とにかく帰ってほしかった。
「掃除したったらな。今日はそれが仕事やからね」
「幾らなのか当てたら帰ってくれるんだよね?」
私は必死に記憶の糸を辿った。しかし先週の記憶は思い出したくないとラベルを貼られた壺の中ですやすやと眠っている。ようやくそれに成功したところだった。殺したい相手に睡眠薬を飲ませておいてわざわざ叩き起こすようなものだ。意味がわからない。
私は横目で財布を見遣った。わかるわけがない。そもそも私を通過した金額は数えないことにしているのだ。金銭感覚がないといってもいいだろう。
「勘でええよ。俺はハズレたったほうがええし」
私は汗まみれになっていた利き手を開いて彼に見せた。五万円でも五千円でもなかった。単に手の力が抜けただけだった。
「残念ハズレね」
結局その日彼は掃除だけして帰った。畳という畳に掃除機をかけて、床という床に雑巾をかけた。窓こそ磨かなかったがおよそ汚れがちな台所や浴室、洗面所や玄関までぴかぴかにしていった。うわ言とはいえ私が頼んだのだからカネも渡した。幾らだったのかはわからないが財布に入っていた紙幣をすべて渡した気がする。それのおかげで彼は私から受け取る代金を、そのとき財布に入っていたすべての紙幣、と定めたようだった。
それ以来、彼は不定期に私のところを訪ねる。私が留守のときを見計らって、この間もらったカネが底をついたから、というたったそれだけの理由で私の家の軒下で待っているのだ。だからこそ私の返答は、次第にああいう形をとることとなった。
「実は僕を見張ってるのかな」
「ああ、その軒先にカメラあって。ほお、オモロイ仮説やね。せやけどコスト的に無駄やわ。却下」
私は買ってきたグレープフルーツを半分に切る。彼に訊いたら食べるのが面倒だから要らないといわれた。食べやすいように切ってもなかなか手をつけてくれない。
「酸っぱいの厭なん」
「でもこれは甘いよ。新しい品種みたいで」
試食用に置いてあったものを摘んだら案外美味しくてつい買ってきてしまったのだ。偏食な上に食に執着しない私にしては珍しい。彼は私がグレープフルーツを口に入れたのを見届けてからおそるおそるフォークでつつく。
「何なら食べるの?」
「果物好きやないさかいに」
彼がいなくなったあとで冷蔵庫をのぞくと一番下の段が空いているのだ。そこにあった食器は不思議と棚に戻っている。
「冷蔵庫買い換えようかな」
「なんで?」
「ブラックホールがあるみたいなんだ。困るよね」
彼は口を斜めにして冷蔵庫をのぞきに行く。機嫌を損ねると彼は無言になるのだ。
「おっさん、作りすぎなのと違うん?」
「無限のブラックホールがあるからついね。君は何か好きなものとかある?」
「カネ」
「紙を食べるのはヤギだよ」
「せやったら俺はヤギかもしれへんね」
今日こそは眠るまいと努力していたのだが不可能だった。やはり何らかの薬物が盛られているのかもしれない。とするなら今日はグレープフルーツか。それとも彼自身が毒物なのか。
彼が不在になったという証拠として、冷蔵庫の一番下の段は空洞になり、財布の紙幣は残らず消える。だが今日はもうひとつ消えているものがあった。三つ買ってきたグレープフルーツが一つなくなっている。一つは切り分けて食べたので残りは二つになっているはずなのになぜか一つしかない。しかしそもそも二つしか買ってこなかったような気もして買い物の際に受け取った白い紙を見てみる。いつもはそのまま捨ててしまったり受け取るのを拒否するのだが今日は偶然にも取ってあった。グレープフルーツの品種名の横に3の数字。やはり三つ買ったのだ。
これはどう解釈すべきなのか。眼を瞑ってしばらく悩んだがよくわからない。欲しいのなら言えばいいのに。彼は個人情報の流出に気を回しすぎではないだろうか。プロフィールにおける好きなものという欄がもうひとつ埋まるだけだ。それが困るのか。
彼はいったい何を隠匿しようとしているのだろう。私が彼について知っていることは依然として本名とも偽名とも取れる名前のみであり、それ以上のこともそれ以下のことも何も知らない。知らせてもらえないといったほうが正しい。私の家を訪問する目的。私から半ば合法的に奪った金銭の使い道。彼の年齢と本名。通っている中学なり高校。世界中から私という人間をターゲットに選んだ理由。挙げればまだ出てくる。それだけで冊子ができそうだ。暇だから実際に作ってみようか。彼に見つかったら燃やされるかもしれない。もちろん私が眠っている隙に。
彼が私の家を訪問する時間帯は圧倒的に夕刻が多い。中学なり高校が終わってから、知り合いに学ランを借り、私が留守になったのを第六感で感知して私の家に向かうのだろう。まるで放課後の部活のように。
選ばれなかったほうのグレープフルーツを食べながら考える。彼は私以外にも客を抱えているのだろうか。独占欲という観点からすれば例え他に客がいたとしてもみだりに話さないほうがいい。私としてもできれば話してほしくないかもしれない。
しかしそうするともう一つ疑問が出てくる。彼は客を平行して何人も抱えているのか。それとも一人に見切りをつけてからまた新たな客を探すのだろうか。要するにパラレルなのかシリアルなのかということだが、要領のいい彼のことだから私と平行して他の客の相手もしていると見ていいだろう。だからこそ何も話してくれないのだ。うっかり口を滑らせるという可能性はきわめて低いがないという保証もない。コントロール癖の塊のような男にそれが発覚すれば監禁して殺されてしまうかもしれない。自分だけのものにするには殺してしまうのが一番だ。
少し複雑な気持ちになってきた。グレープフルーツの果汁が飛んで眼に入ったせいかもしれない。きっとそうだ。もう考えないことにしよう。
温厚でお人好しと思われがちな私にも、独占欲くらいあるのだから。
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