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第5話
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黄色が好きだったことを思い出す。
青い絵を見ているときだった。その絵はタイトルにブルーと入っているだけのことはあって、使用した色は青のみである。私はその絵を見るためだけに、芋洗いのように陰険な電車になんか乗って遠路遥々美術館に赴いたのだ。
じっくり鑑賞できるよう、その絵に対峙する形で長椅子が設置されていたので腰掛ける。運よく誰も座っていなかった。穴が空くほど見つめていると次第に補色の黄が浮かび上がってくる。額縁のかかっている壁が真っ白なので、まったく同じ形の黄色い絵がそこに投射されたかのようだ。
「なあ、オモロイ?」
「先に出てるかい?」
彼は私の隣に座って腕組みをする。脚も組んでいる。もしここにテーブルがあったら頬杖をしていただろう。見本として置いてあった図録をパラパラと捲り、つまらなそうに溜息をつく。彼は徹底的に本格的に退屈そうだ。
私としてはそもそも彼を連れてくるつもりはなかった。私は未来というものに過剰に拒否反応が出てしまうので滅多に予定など立てないのだが、今回ばかりは話が違った。偶然にも情報を手に入れたときすでにその企画展の開催期間が今週いっぱいだった。私は急いでその美術館の場所を調べメモをしておいた。頭痛の弱まる日に出掛けるべく準備していたのだが、それを彼が見つけちょうど空いてるから、という建前の下一緒に出掛けることになった。交通費やその他諸々はすべて私持ちだが、付き添い代として余分に金銭を要求されたのは言うまでもない。つまり彼は付き添い代とその内容の不釣合いに異を唱えているのだ。
しんと静まり返った美術館においては靴と床が衝突する音しか聞こえないことになっている。私はこれ以上彼と妥協案を練るために会話を続行したくない。ひそひそ話というのは案外響く上に耳障りで、周囲の視線が恐ろしくて仕方がない。気分が悪くなってきた。青い絵が瞼に焼き付いているうちに退散することに決める。そのほうが彼も喜ぶだろう。
通路にまで人で溢れかえっているミュージアムショップの脇をやっとの思いで抜けて美術館の外に出る。やはり人が集まるような場所には来るべきでなかったのだ。私は人が怖いのではない。人という生物が発する不可視光線が私の身体を突き抜ける感覚が厭なのだ。まだ上手く言えない。しかし上手く言えるようになったらすでに治りかけている証拠だろう。治る? 治るだろうか。
「おっさんが見とったあの絵、シンプルでええと思うよ」
びっくりした。てっきり不満をぶつけられるのかと思っていた。彼は眼を細めてチケット売り場を睨んでいる。開催期間の終了が迫っているせいだろうか。人の列がくねくねと連なっている。私は人を避けるために開館時間ちょうどに入場したのでこの恐ろしい人間列が形成される前だった。
「買わへんの?」
「なにをだろう」
彼はミュージアムショップのある辺りを指さす。ガラス張りになっているので外からでも見える。
「あんなに人がいるからね。本物が見れただけで」
「ニセモンは要らん、ゆうこと?」
「そうだね。でもポストカードくらいならあってもいいかもね」
「買うてきてもええよ」
「いいや。どうしてもってわけじゃないから」
彼は眉をひそめる。好意を受け取れ、と言っているようだった。或いは単に無駄な出費をさせたいか。
「一緒に来てくれる?」
青い絵のレプリカを購入するという一大プロジェクトにおける段取りのすべては、彼が脚本を書き演出までしてくれた上に主演まで務めてくれた。おかげで私の出番はほとんど非言語で済んだ。向こう側にしてみれば絵を欲しているのは彼のほうに思えただろう。私は単なるスポンサで。絵は数日で届くらしい。それが遅いのか早いのか私にはよくわからなかった。
彼が空腹を訴えるので、私はうどんと書かれた暖簾をおそるおそるくぐる。どうやら彼は最初からこの店でうどんを食べるつもりだったらしい。それで興味の欠片も感じないはずの美術館への付き添いを買って出てくれたのだ。私は特に何も食べたくなかったが彼に強く勧められて仕方なくお品書きを開く。本来は丼物とセットになるように設定されている、量の少ないうどんならば、と妥協した。
「そんなん、一口で終わってまうよ」
「僕は少食なんだよ。たぶん君は知らないだろうけど」
彼と一緒に食事らしい食事を採るのは初めてだったことにたったいま気がつく。菓子や果物を摘むことなら何度かあったが。
「僕が一日一食だって知ってた?」
「そうなん? はあ、電池も気ィもちっさいなあ」
お昼時だが店内は私と彼以外に一組だけである。暖簾をくぐった段階でこの空間が人で満ち満ちていたら例え彼に嫌われても外で待っていようと思った。
昆布だしのにおいがする。厨房がもわもわと漂う湯気で満ちている。うどんは五分と経たないうちに運ばれてきた。つゆが透き通っているので丼の底が見える。一本ずつちまちま口に入れていたら彼が渋い顔をした。別に彼の頼んだうどんが特別渋かったわけではないと思う。
「嫌いなん?」
「そうじゃないよ。僕は何を食べてもこうだよ」
私は彼がうどんを二杯すする時間にも追いつかなかった。よければもう一杯食べてもいい、と言ったのだがさすがにもう要らないと返された。私の丼の中のうどんは時間と共にどんどん柔らかくなっていく。伸びたという状況かもしれない。スープに漬かった麺類を食べる機会が少ないためよくわからない。
再び混雑の権化ともいえる陰険な電車に揺られて帰宅する。途中で昼食を採らなければぎりぎり午前枠に収まっただろう。まさにとんぼ返り的外出である。
彼は私の庭の木からもいできた棗を齧るのをやめた。
「見た目は姫りんごみたいやのに」
「酸っぱかった?」
「ふにゃふにゃしとる」
徐々に接近するお囃子のように頭痛を感じる。外出するとすぐこれだ。出掛けた距離と時間に比例して頭痛のひどさが上がるから今日は最高レヴェルが体感できそうだ。とうとう私の脆い頭蓋骨が崩壊してしまうかもしれない。
私は畳の上で横になる。彼が枕と頭痛薬を持ってきてくれる。もちろん水も。
「君のこと、ひとつだけ聞かせてくれない?」
「質問に依るな」
「僕以外に、平行してこういうことしてる人がいる?」
「それ聞いてどないするん?」
飲みなれている錠剤なのになかなか飲み込めない。グラスに半分ほどあった水も全部使ってしまう。いつもなら一回で飲めるのに。胃の中に何かが収容されている感覚が邪魔をする。
「いるの?」
「いまは、おらへん」
彼は手をつけなかった実を庭に放る。窓が開いたのでひんやりとした風が私の額を撫でる。彼の姿が逆さまに見える。きっと私のほうが逆さまなのだ。私のほうがおかしい。彼はおかしくない。
彼は私の頭の延長線上に座布団を置いてそこで胡座をかく。細い十本の指が近づく。
「正直に言ってよ」
「嘘やない。ホンマの話。もうおらへん」
「いくら貯まれば終わりにできる?」
「いくらでも」
「借金なら僕が」
「借金やない。生活費や、ゆうたはずやん」
「趣味なら止めないけど、僕は」
「あんなあ、やめてくれへんかな」
「どうすればいい?」
「どうもせんでええよ。俺はカネが欲しい。それでええやん」
「よくないよ」
「俺は非売品やさかい。諦めて」
頭蓋骨が割れそうなくらい痛い。脳が沸騰しそうなほどに熱い。こめかみが下手な太鼓のようにうるさい。胃液が逆流しそう。吐けたら楽になるのだろうか。しかし今日は吐きたくない。吐いたら出してしまう。
「眠ったったらええよ」
「また毒なんだろう?」
「俺な、睡魔召還できるん。悪魔さんと契約しとって」
「悪魔のせいでそういうことしてるの?」
「せやったらオモロイね。それ採用」
「本当のこと話してほしいんだ。どうしておカネが要るのかとかどうして僕のところに来たのかとか」
憶えているのはそこまでだった。そこから先は白塗りと黒塗りが交互に構えているだけ。古びたチェス盤ように所々が欠けている。彼は黙ったまま睡魔を召喚したのだろう。無言なのだからいままで気がつかなかったのだ。
眼が醒めたとき彼は私の隣にいた。添い寝というよりは、パラレルワールドで眠っていた少年が偶然にも睡眠中にこの時間軸に移動してしまい、行き着いた先がたまたま私の隣なだけという感じだった。おかしい。彼は私が眠ったあとはいないはずなのに。財布も確認したが紙幣はまだそこにある。
彼は眠っている。そのことも私を混乱させるのには充分すぎるように思う。私は彼の寝顔を初めて見た。本当にパラレルワールドから迷い込んだ少年のようだ。私と共通する点は何一つない。人間という類型から外れたところにいる。いっそ違う世界の住人としたほうがいい。構成元素がまるで違う。
起こすのが忍びなかったのでそのままにする。日が傾いてきたせいか身体が冷える。押入れから毛布を出して彼にかける。私の頭痛は一眠りしたおかげで三分の一ほど引いた。残り三分の二はまだ活発にずきずきと脈を刻んでいる。起きてもすることがないのでもう一度彼の横に戻る。
彼はカネが欲しい。
私は彼が欲しい。
彼は非売品である。
なんだか三段論法のようだ。私と彼とカネは三角関係なのだろうか。カネを出しているのは私なのに、彼はカネしか見ていない。だがカネを出すのをやめれば彼は私から離れてしまう。カネという餌で釣らなければ彼は私の元を訪ねることはない。カネは単なる媒介物なのに、彼は媒介物に執着する。
「なんや、失敗したみたい」
彼はゆっくり眼を開ける。充血の赤い線が疎ましい。彼の白い眼球を穢しているようで。
「きっと契約更新期なんだよ。滞納してるんだ」
「カネ、欲しい」
やはり彼と睡魔との契約は切れかかっている。私は眠らなかったし眠れなかった。彼をパラレルワールドなんかに帰したくない。私は彼の脳天にずっと鼻をつけている。彼は離してほしい、と同義の言葉をすべて言い切ってしまう。異国のことばを使ったって伝わらないのだ。効果なし。硬貨なし。
「なあ、俺明日学校やから」
「明日は日曜だよ。僕に曜日感覚がないと思ってそういうことを言ったんだと思うけど」
「おっさんの曜日感覚のほうがずれとるん。俺のケータイ見たってよ。世界標準はそっち」
「確かに君の世界は明日が月曜かもしれない。火曜かもしれないし水曜かもしれない。木曜かもしれないし金曜かもしれない。だけど僕の世界は明日は日曜なんだ。いま君は僕の世界にいる。郷に入っては郷に従えっていうよね。そういうことだよ」
彼は首を動かそうとする。私はそれを阻止する。
「俺のケータイ番号教えるさかいに。なあ、頼むわ」
「駄目だよ。僕は君の声が聞きたいんじゃない」
「メアドもつける」
「君じゃない人間が返信するかもしれない。それに僕は携帯電話は持ってない」
「パソコンあるやん」
「メールは好きじゃないんだ。偽者でも絶対わからない」
彼は肩を動かそうとする。私はそれを阻止する。
「監禁したってもオモロないよ」
「監禁じゃない。今日一日だけ泊まってくれればそれでいい」
「ええよ。せやけどそないなことしたらもう会われへんね」
「そうやって乗り換えてきたんだね。僕は何人目? いや、何十人目かな」
「俺に執着してもええことないよ」
「突き放しても無理だよ。睡魔の魔力ももう僕には効かない」
効かないはずだった。誤算。迂闊。調子に乗っていたとも言い換えられる。まるで頭蓋骨に全方向から衝撃を加えられたかのような潔さだった。いや、潔くはない。うっかりだ。それが正しい。私が眼醒めたとき彼はこの世界のどこにもおらず、また財布の中身もなんら変化がなかった。
私は彼に見限られたのだ。
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