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第6話

 深海の底だってこんなに濁ってはいない。新月の夜だってこんなに暗くはない。  彼が私の家を訪れなくなってどのくらい経ったのだろう。わからない。記憶がどんどん浸蝕されていって、気味の悪いごつごつした岩肌がのぞく。私から養分を吸い取って育った雑草で指を切ってしまう。どくどくと闇黒色の粘液が流れ出す。靴が片方だけ濁流の渦に呑み込まれてしまう。片方だけではおちおち道も歩けない。失った靴に限ってお気に入りだったりする。  電話のベルと玄関のチャイムが同時に鳴ったらどちらを優先すべきか。そんなの決まっている。両方無視すればいい。万事解決。オールオッケイ。鼓膜は音から解放される。  その片方は六番目にクビにした秘書だった。  私は秘書など必要なかったのだが、何かの加減で血迷って事務所兼仕事場の出入り口の扉に:と書いて貼ってしまったのだ。酔っていたわけではない。酒は飲めないからきっと何か如何わしいものが憑依していたのだろう。  当時私が住んでいた事務所兼仕事場はちょっとやそっと道を踏み外したくらいでは到底辿り着けないような入り組んだ道の更に入り組んだ先の先にあったため、そんな紙なんか誰も眼にしていないと思った。実際その紙を貼ったのはたった三日やそこらだったし、私の字は万人に対して読みづらいことに関してはそれこそ並ぶものなしの領域を極めているので、幸運にもそれを眼にしたところで意味が取れないのだ。  事実、紙を剥がして一ヶ月は音も沙汰もなかった。しかし静かだったのはその一ヶ月だけ。安寧は壊されるために存在する。  六人の秘書志願者がどっと一気に私の事務所兼仕事場を訪れ、一斉にぎゃあぎゃあと喚き出した。やれ私が先だっただの、やれあなたなんか帰りなさいよだの。私としてはうるさいこと以外に特に文句はなかった。なぜなら私がやおら腰を上げて面接するまでもなくたった一人を残して五人がそれこそ尻尾を巻いて帰ってしまったのだ。ものの十分だったと思う。数えていたわけではない。計っていたわけでも時計を睨んでいたわけでもない。  彼女がそう言ったのだ。  十分ほどお待たせ致しました、と。  その一言で私は彼女が気に入り秘書に取り立てることにした。というわけで残った彼女は六番目ということになる。実際に私が手を下したわけではないが私が雇った秘書がクビにしたのだから私がクビにしたも同然だろう。  しかし私がその事務所兼仕事場を離れるに当たって彼女もクビにした。期間は思い出せない。彼女に聞けば絶対に正確なところまで教えてくれるだろう。プロパガンダのようにくっきりした口調で。  彼女は時計が好きだった。彼女の腕は毎日違う時計で飾られていた。だが別に時計コレクタだったわけではない。この形式段落第一文目の欠落部分を補うと、彼女は時計を買ってきてそれを一日で壊すのが好きだった、となる。ひょっとしたら時計の使い捨てを目指していたのかもしれない。  彼女における時計の壊し方は破壊思想というよりはある意味美学が溢れていたように思う。彼女の住んでいるアパートにはロフトがあった。多くのロフト保持者がそうするようにまた彼女もロフトの上で睡眠をとっていたのだが、そんな彼女が朝起きて最初にすることは、枕元でけたたましく怒鳴り散らす目覚まし時計をロフトから落下させることだった。つい過去形で記してしまったがいま現在も実施しているものと見てまず相違ない。重力に屈した哀れな目覚まし時計は床に衝突して息を引き取る。即死だ。  だが勘違いしないでほしい。彼女は決して目覚まし時計がうるさいからそれに腹を立ててその結果、発作的に目覚まし時計の息の根を止めることを続けてしまうわけではない。むしろ彼女は目覚まし時計が一番好きだった。だからこそ一瞬で息の根を止めてあげようと。それは愛情を示す方法であって決して目覚まし時計に積年の怨み辛みをぶつけているわけでもなんでもない。  じりじりじり。  ひゅう。  がしゃん。  しーん。  ただこれだけのことだ。  私は彼女の声が聞こえるまで布団の中にいた。彼女は私の家に遠慮もせずに上がりこんできた上に私の寝室にまで侵入してきた。不躾にもほどがある。まったく、誰の秘書だ。 「ぶりです先生。お変わりなく」  きっと私が彼女をクビにしてから今現在までの時間を正確に述べてくれたのだと思うが、私はそんなお変わりない彼女に欠伸を見せ付けてやっていた最中だったので聴覚刺激が制限されていた。それに私は鰤ではないし、突然出し抜けに鰤ですとか言われても反応のしようがない。 「ついさっき電話が来たみたいなんだ。また来るかもしれないからその時は代わりに出てくれない?」 「いつの電話ですか」 「君が僕の家に殴り込んできたのとちょうど同時」 「それも私です」  なんということだ。迷惑にもほどがある。彼女は玄関のチャイムを押しながら電話もかけたというのか。先ほどの文章を訂正しなければならない。  その両方が六番目にクビにした彼女だった。 「いまなにしてんの?」 「先生とお話を」 「違う。僕がクビにしたあとどうしたかってこと」 「帰宅しました」  私はついにベッドから跳ね起きる。布団を蹴って彼女にぶつけようと思ったのだが寝起きで方向感覚がずれた。湿った布団は彼女のいない方角に吹っ飛んだ。 「そうじゃない。僕にクビにされたあと君はどんな職業に就いたのかってことだよ」 「ニートです」 「ふうん。じゃあどうやって暮らしてるの?」 「パラサイトシングルですね。いま流行りですよ」  私は完全に覚醒する。だがそれと同時に鉛のような頭痛が襲ってくる。彼のことを思い出してしまう。彼ならばこの瞬間に頭痛薬と水を私に持ってきてくれるのに。彼女はそんなこと気がつきもしない。私が頭痛持ちだということですら失念している。 「で、何の用?」 「先生がお呼びになったのでは?」 「どうして」 「夢で」  私の頭痛が加速する。加速度はaと置くのだ。テストには出ないが憶えておいたほうがいいこともたまにある。 「正夢でしたね」 「君が勝手に正夢にしたんだよ。無理矢理実現させないで」 「お仕事は?」 「僕の話を聞いてくれ」 「はい」  彼女は絨毯の上で正座する。また勘違いしたのだ。額面どおり受け取ると迷惑だからやめたほうがいい。今日は教訓が多い。 「遠慮せずにお話ください」 「帰れ」 「命令は一つに絞っていただけると」 「じゃあ僕の失ったものを捜してきてほしい」 「先生が夏に失くされたものに関しては、私は関与したくありませんが」 「大丈夫。秋だから」  私はたっぷり時間をかけて、彼について憶えている情報をすべてアウトプットした。しかしそれでもB5一枚にも満たない。私の利き手が生み出す壊滅的な文字を平気な顔で読めるのは世の中で六人しかいない。そのひとりが彼女だ。平気な顔で読めない私は除くこととする。 「ヨシツネ君ですか」 「まさか知ってるとか言わないよね?」 「ファンですし」 「ファン?」  きっと彼女の言うファンは愛好者という意味ではなく夏にくるくる回ってくれるあれや、台所の壁や天井でくるくる回ってくれるあれのことに決まっている。妙な名前の商品が出回っているものだ。 「見つけたらどうすればいいのですか」 「連れてきて」 「そうですか。なるほどちょっと会わないうちに先生も」  臨時秘書というポストをちらつかせることで、ようやく彼女を追い払うことに成功した。私は信用も安心もしていない。だが彼女の素っ頓狂な訪問のおかげで少しだけ気を持ち直すことができた。感謝はしない。臨時とはいえ私の雇った秘書なのだからこのくらい当然だ。  しかし万一、いや億一。やめよう兆一、彼女が彼を発見できたとする。そうしたらどうすればいいのだろう。彼は私を見限っており二度と私の下を訪れることはない。それは有無を言わさずの決定事項であり揺らぐことはあり得ない。  彼を手に入れるのがカネでも力でも不可能だとしたら、いったい他にどんな方法が残されているのだ。  熱めのシャワーを頭から被ってぼんやりする。浴室にある鏡が曇って見えなくなる。サウナのようになってきた。私はサウナが嫌いなので窓を少しだけ開けて換気する。  サウナというと小学校の頃通っていたスイミングスクールを思い出す。泳ぐ時間が終わると決まってサウナに押し込められる。一緒に泳ぎを習っているクラスの子と一緒にぎゅうぎゅうのサウナ室にすし詰めにされて五分なり十分なり放置される。その時間が来るまで外に出られないのだ。コーチはピンク色の砂が入った砂時計を逆さにし、サウナ室の外で散らかったビート板やらを片付ける。最悪の時間だった。その強制拷問サウナが嫌で私はスイミングスクールをやめた。トラウマというやつかもしれない。しかし水泳自体は嫌いではない。サウナだけが厭なのだ。サウナに入ると一瞬で皮膚の表皮から水分が蒸発する。徐々に内臓まで干上がって最後に脳がやられる。それを週二で延々繰り返せば誰だってそのスイミングスクールに別れを告げたくなる。  学ラン。それは実在する学校のはず。虚構ではない。彼の発言がまるごと虚構だったらそれも虚構だが確かめてみるだけの価値はある。秘書にやらせよう。私はまだ家から出たくない。出られない。もしかしたら彼が訪ねてくるかもしれない。いったん留守にしても意味がないこともわかっている。でも意味のない散歩をやめられない。儀式のように、アディクションのように。  近所を一周して戻っても家は無人だった。玄関先にも誰もいない。彼が待ってくれていた定位置は正確にはどこだったのかわからなくなってしまった。  なんだか様子が変だ。頭が痛くないときは妙なスイッチが入る。だから私は万年頭痛に悩まされていたいのだ。鎮痛剤のはずの頭痛薬も、頭痛を加速させるために飲んでいたようなものだから。  郵便受けだ。  私は庭の石畳を引き返す。木々から葉が落ちて視界が開けたのでこの季節だけ多少訪問しやすくなる。迷宮の入り口が緩和される。寒いので池の住人はどこかに行ってしまった。おそらく冬の間は暖かい世界に移住するのだろう。さながら渡り鯉だ。  手紙が入っている。切手も宛名も差出人もない。何の変哲もなさそうな細長い茶封筒の中に地図が封入されている。その地図は手書きでもネット上の簡易地図をプリントアウトしたものでもなく、書店に並んでいる地図の本のとある一ページをむしり取って、そこに油性マジックで道順を示したものだった。黒い線はフリーハンドで乱暴に書き込まれている。元秘書のいたずらにしては風刺が効きすぎている。例え彼女が三百回生まれ変わってもこんな芸当は思いつかない。  指定された場所はすぐにわかった。歩くとやや遠いがバスを使用するほどではない。だが私は車輪が四つ以上ある車両に乗ると宿命的に酔ってしまうのでそもそもバスという選択肢はなかった。もちろんヒッチハイクという世にも積極的な選択肢は早々に抹消してある。  私の頭痛はその目的地に近づくたびに緩和していった。痛みの元に直にアプローチするために頭蓋骨に穴を空け、そこからずきずきを吸い取られているようだった。腐れ縁的な長年の連れを眼の前で徐々に解体されているが如き最悪の気分。  私の低い身長の三倍はあろうかという大きな門から敷地内に踏む込むと竹林が広がっていた。竹は尖った鉛筆のように天を突き刺しそこいらの電柱よりずっとどっしりと長い。その合間を縫って楕円の飛び石が敷かれている。光は一切合財竹たちが独占しているのでとても昼間とは思えない。もしかしたら一瞬で夜になってしまったのかもしれない。  視界が開けたところで分かれ道になっている。地図の切れ端は大門のところで案内を放棄してしまったため頼りになるのは頭痛の引いた脳だけだ。しかしどちらに進んでも行き止まりのような気がする。俄かに引き返したくなるがいま辿ってきた道すら行き止まりのように思えてくる。 「雪降らはったら綺麗ですよ」  突然石灯籠から飛び出たみたいな登場の仕方だった。いまさっき左右を確認した際には人の気配を感じなかったはずなのに。石灯籠でないなら竹だろう。 「ツネはんがお世話んなってもうたようで」 「あの、それは偽名では」 「本名かて偽名や思いますけど」  彼と似通った抑揚だということにようやく気がつく。だが彼のほうがずっと早口でせっかちな口調だ。着物を着て艶のある黒髪を結わえた女は低反発枕のように微笑む。 「ツネはんが行方不明なんどす。おらはる場所知りまへんか」 「行方不明?」 「まあ行方不明ゆいましてもウチのとこには懐いてくれません。ウチのお友だちが捜したはるさかい、手伝うたろ思いまして」 「友だちですか」 「愛人やゆうたらようわかります?」 「あなたの?」 「ウチのやのうたらそら誰の愛人やろね」  粉薬のような沈黙が続く。  彼女の年齢は低く見積もって二十代前半、高く見積もると四十代前半。そのどこでも間違っているのかもしれない。間違い探しなのに基本となる絵がわざと提示されていない意地悪クイズみたいだった。 「ヨシツネ君のお母様でしょうか」 「そんなん答えたらウチの正体がバレます」 「僕のことはどれくらいお調べに?」 「お仕事辞めはったことくらいでしょか。ウチのお友だちも嘆いてます。あれはこれから伸びるゆうて」 「僕に何をしろと」 「地球さん傷つけるんはあかんえ」  一瞬意味がわからなかった。着物の女は私の足元をちらりと見遣る。そこでようやく思い当たって私は堀に掘った穴に土を戻した。おやつの骨を埋め損ねたような跡が残る。 「ツネはんにいくらぼられました?」 「通過した金額は数えないことにしてるので」 「センセがええんやったら差し上げます」 「目的語はあなたの愛人のことじゃないでしょうね」 「それはもう、センセのお好きに」 「そんなことを言うためにひきこもりの僕を呼んだわけですか」 「あらまあ、ひきこもりやったんですか」  脳でちりちり音がする。指の先が冷たくなって末端から死んでいくみたいだった。ぺらぺらのコートの前を閉じる。寒いほうが好きなのだがいまはそうでもなかった。 「あなたはヨシツネ君がどうなろうとどうでもいい。でもとりあえずいなくなる前のヨシツネ君が最後に会っていたであろう僕に接触することによって何らかの情報を手に入れようとしている。つまりあなたが知りたいのはヨシツネ君の現在の居場所ではなく、ヨシツネ君の足取りなんじゃないですか」 「知らんほうがええこともありますよ」 「何か盗まれたんでしょう。大事なものを。僕にはそれを訊く権利くらいはあると思いますが」  既視感だらけの表情だった。もし眼前の女といなくなった彼に血縁関係がないのなら、人類というのは実に差異のない生物だと結論付けるしかなくなる。そのくらいそっくりだった。おかげで私のかさぶたが剥がれかかっている。黒い血がじわりと滲む。  着物女は向かって右の道をゆっくりと進む。私は足元を眺めながら三メートルほど間隔をとってついていく。 「ツネはんはウチのあにさんのお子です。ホンマよう似てはって。瓜二つですわ。せやけどあにさんは子育てが得意やのうてな。ウチが預かることにしまして」 「そのお兄さんとやらはご存命で?」 「さあどやろねえ。とっくに縁切ったさかいに。まあ生きてはってもええんやけど、ウチはもう会いたない」 「ヨシツネ君の母親は」 「家庭環境から攻めてもあきまへん。そんなん何の意味もない。センセはツネはんを手に入れたい。ウチはツネはんが盗んだもんを取り返したい。ただそれだけの話どす」  いつの間にか住居らしき建物の前まで来ていた。瓦の屋根が垣根越しにのぞく。着物女が足を止めて振り返る。その顔は笑ってもいなかったし怒ってもいなかった。もちろん哀しみでもなかった。動物園にいる象だってこんな顔はしない。 「センセ、もう帰りましょ」 「何を盗られたんですか。それだけ聞いて帰ります」 「信仰です」 「信仰?」 「ウチはたいていここにおります。用はお友だちに任せてのんびり隠居ですわ。ええお返事待っとります」  着物女はゆっくりお辞儀して垣根の向こう側に消えてしまった。時間という概念を根こそぎ廃止させようと思ったら彼女に依頼するのが賢明だろう。それでも駄目なら秘書に頼めばいい。彼女ならいつでも時計の息の根を止めてくれる。たとえ朝でなくても。  浦島太郎の気持ちが一瞬だけわかったような気がしたがすぐに忘れてしまった。理解というのはそんなものかもしれない。幻想なのだ。そもそもが誤解だというのがコミュニケーションの大前提であり、会話が堂々巡りをしていると気づいても結局また違うドードー鳥の主催する堂々巡りレースに参加している。会議は踊るされど進まず。どこにも行けないしどこに行くべきかもわからない。  彼を見つけるのは絶対に不可能だ。そんなことは、私がこんなわけのわからない場所に来る前からわかっていたことだった。

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