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第8話

 頭がおかしくなりそうだった。すでに遅かったのかもしれない。つまり私は自分が頭がおかしいということをたったいま再認識しただけなのであって、この瞬間たったいま頭がおかしくなったわけではなかった。単に気がつかなかっただけだ。  それを気づかせてくれたのは永久機関を思わせる白黒の無声映画だった。一本一本は十分弱と決して長くないのだが、それをぶっ続けに五本も六本も観ると結果として過ぎた時間は一時間になってしまう。  そこは劇場とは程遠い簡易施設であり、壁が三方向にしかなく照明も完全に落ちていない。横に五つ、縦に四つぎいぎいと軋むパイプ椅子がおざなりに並んでいる。左右にキクラゲのような暗幕が垂れている。スクリーンに向かい合ったときに背を向ける方向が隣の空間と繋がっており、もし途中で厭になった場合容易く抜け出せる仕組みになっている。  だが途中でやめることは出来なかった。もうやめてくれ、と叫びたいのだが椅子と背中が接着されて、眼球が視神経ごとスクリーンに固定されている。  上映されているのは、筋も何もない、とにかくわけのわからない映像の断片である。監視カメラの映像のほうがよっぽどスリリングだし、平和な家族団らんドラマを見ていたほうがよっぽどダイナミックである。特徴といえばストーリィらしいストーリィがなく、次に何が起きるのか誰も想像し得なかったことが繰り広げられるくらいである。  そう書くとなんだ面白そうじゃないか、と思われるかもしれないが絶対にそんなことはない。一度観てみればいい。観賞後に残るのはねっとりとした疲労感だけだ。  比較的憶えているのは。ひたすら海星の回転を記録したものと、ひたすらプールで水と戯れる年配の肥満気味の女性たちの映像。光の点滅を映したものもあったかもしれない。  とにかくそれらに共通する試みは徹底的に意味を排しているところにある。海星の回転だろうが、プールで女性がはしゃごうが、光がちかちかしようがどうだっていいのだ。それが終わってスクリーンにプロジェクタの光が当たらなくなると、私は自分から意味という物質を根こそぎ剥奪されたかのような心細い気持ちになった。  頭の中に真っ白で空虚な空白が居座っている。足元がふらふらして階段から転げ落ちそうになった。壁を触って体を支えるが、体の重さを感じない。階段から転げ落ちてみないと私の重さを感じられないような気がした。軽いのだ。足と床の間に空気があったとしてもなんらおかしくない。  ふわふわする浮遊感。ざわざわする焦燥感。 「なんや(ちっ)さいなあ」 「写真は身長がバレませんからね」 「写真? 見たような気ィもするわ。いつやったかなあ。先生の噂から判断して勝手にイメージを作ってしもた。その像からあまりにかけ離れとったんが身長やったから、思わず口から出たらし。気ィを悪くされはったんなら謝ったるわ」 「いいえ、慣れてます」  眼前の人物を訪問して真っ先に浮かんできたのが、私が学生のとき初めてひとりで美術館に入ったときの記憶だった。  私の好きな芸術家の企画展が催されていたのだが、いくらその作品が好きだとはいえあんなわけのわからない自作映画など観るべきではなかったのだ。美術館を出て家に帰ってくるまでの記憶がすっぽり抜け落ちている。どうやって辿り着いたのかちっとも思い出せない。あたかも瞬間移動して帰宅したかのようにそこだけ途切れている。  ただ、その日の夕方に大きな地震があったのは憶えている。私の利用した路線は全面止まってしまったのだが、運よく足止めされずに済んだ。頭痛がないときのいつものあれがさらに強化されたらしい。もし夕刻まで美術館にいたのなら私は地震の影響で深夜まで家に帰ることが出来なかったのだから。 「ヨシツネ君の生物学上の父親だと伺いましたが」 「あれはまだ叔母やゆうとるんかな」 「叔母じゃないんですか」 「叔母なら叔母でもええけど。妹ゆわれるんは気に入らんわ。あいつのほうが年上のはずやから」  日常で話しているのは標準語なのだろう。たまに彼や彼の叔母と似たような抑揚が入るのは生まれ育った環境の名残のように思われる。生まれた地域に帰れば彼と同じ抑揚に戻るかもしれない。 「ツネなら来てへん。見ての通り、他所もんは入れんようにしとるから。先生は特別に許可したけど、本当は誰も入れないし入れたくないんよ」 「僕だって出来れば来たくなかった。強制と脅迫で仕方なく訪問させてもらっただけなんです。いないなら帰ります」 「まあ待ちいな先生。せっかく会えたんやから少し話を」 「生憎ですが僕はあなたと話すような話題も必要も感じていません。失礼します」  甲高い声が反響する。細く白い背中。  この過剰に薄暗い空間に足を踏み入れたときからずっと無視していたつもりだが、聴覚も視覚もなかなかゆうことを聞いてくれない。彼らは受容器だから仕方がないのだ。受け取るのが仕事でありそれ以外の意味づけは彼らの受け持つところではない。それをやっているのは脳である。基本的には脳がいけないのだ。  和服の男は瞼の上から両眼を押さえて息を吐いた。 「たまには構ってやらないと役に立たななる」 「そういうのは僕が居ないところでやったらいかがですか」 「さっきまで誰もおらんかった。先生の訪問するタイミングの問題やろね。最初は気になるがまあ慣れる」 「慣れたくもありませんね。帰ってよろしいでしょうか」  和服の男は脇にあった受話器を取って耳に当てる。一言二言適当に述べて電話を切ると、後ろの襖がするすると開いた。 「先生が暇そうだ。持て成してあげんさい」 「かしこまりました」 「僕は帰りたいんですが」  私は和服の男に話したつもりだったが、襖は新たに呼ばれた若者によって音もなく閉められてしまった。  仕方がないので黒光りする床を睨みながら廊下を進む。壁にかかっている絵画が私の好きな芸術家のものが多くてすごく厭だった。あの和服の男と同じ趣味を持っているかと思うと吐き気がした。頭痛は感じない。やはりあの自称叔母や側近たちと同属元素で構成されているのだ。 「あの、先生は」 「気にしないで」 「ですが僕は檀那さまから」 「放っといてくれないかな。僕はこんな場所一刻も早く立ち去りたいんだ」  前を歩く若者は本当に若かった。すらりとした細身であり、十代の少年にしか見えない。複雑に絡み合ってほどけなくなった蛇のような事情で中学だの高校だのを中退し、ここに転がり込まされたみたいだった。おそらく読みは当たっている。 「君は何歳?」 「お答えできません。すみません」 「口止めされてるの?」 「言わないほうがいいらしいのです」 「いい、は誰にとってのいい?」 「もちろん檀那さまです」  案内されたのは離れらしき家屋だった。手入れの行き届きすぎている庭に雪が残っている。白い部分がまだ多いということはごく最近降ったのだろう。これが人工雪だったらもう閉口するしかない。実際もう何も喋りたくなくなっていた。  少年はどこからともなく急須と湯飲みを持ってきて茶を淹れてくれる。 「僕でないほうがよろしいでしょうか」 「誰でも同じだよ。ただ、君の檀那様とやらはこだわりがあるみたいだけど」 「あの、じゃあ僕は」 「持ち場に帰っていいよ。持ち場があれば、の話だけどさ」  少年の視線が行ったり来たりする。天井と畳と台と座布団と自分の手元を見てから、私の顔を申し訳なさそうに見た。絶対的で不可避な命令を待っているときの顔だ。私はそれに気づかないふりをして湯飲みを口に運ぶ。熱すぎて飲めなかった。 「もし差し支えなければ教えてほしいんだけど、君はどのくらい前からここにいるの?」 「つい最近こちらに」 「ヨシツネ君て知ってる?」  少年の表情が曇った。両肩が痙攣したのを隠すように速やかに足に手を遣る。痺れたふりをしているのだ。しかし誤魔化しきれていないのを重々承知しているのだろう。俯いて黙ってしまう。 「言えないんだね。檀那様とやらに口止めされてるんだ」 「すみません」 「顔を合わせたことはある? 喋ったこととか」 「すみません」 「でも君がここで謝ると肯定してることになるよ」 「ご想像される分には構いません。僕が勝手な判断に基づいて言うことを禁じられているだけですので」 「君の話もいけないのかな?」 「いいえ、ある程度は」 「じゃあそのある程度の話を聞きたい。君の判断で僕に話してもいいことの境界を示してくれないかな」 「何か質問を」 「名前は? 本名じゃなくていいよ」 「ありません」 「え?」 「まだ名前はいただけません」 「てことは名前がある人もいるわけだね。君はまだなんだ」  少年はちらりと湯飲みを見る。飲んでくれませんか、と言っているみたいに思えた。 「猫舌なんだよ」 「ではもう少し冷めたものに」 「いいよ。別に喉が渇いているわけじゃないし」 「でも僕は」 「何か入れたよね? 何が入ってるの?」  少年は私と湯飲みを見比べて動けなくなっている。カテゴリの違うものを比べたって差異が見つかるわけはないのに。私は湯飲みを持って縁側に出る。盆栽の松に目掛けて中身をぶちまけた。少年があ、とか細い声を漏らすのが聞こえた。 「心配ないよ。檀那様とやらには言わない。僕はこの緑茶を美味しくいただいた。それでいい?」 「でも」 「ここには何人くらい人がいるの?」 「やっぱり僕じゃ」 「そうじゃない。例えここに案内してくれたのが君じゃなかったとしてもお茶なんか飲まない。知らない人から食べ物を享受されるときは注意したほうがいいっていうのが僕の経験則だから。こんなところで死んだら洒落にもならない」  少年の顔が蒼白くなる。緑茶の中に彼の魂が入っていたとか、そうことではあるまい。小刻みにかたかた震えている。確かに離れは冷えるが周囲と不釣合いな電気ストーブが点いているので大丈夫だと思う。  ストーブの真ん前に座っているため背中が焼けそうに熱い。操作の仕方がわからないので移動することにする。 「折檻とかあるの?」  少年は首を振る。折檻が厭だ、という意味ではなくそんなこと考えられない、という意味で振ったのだと思う。 「大丈夫だよ。僕が言っといてあげるから」 「どうしよう」  声は届いていない。少年はここではない場所を見て怯えている。  悪いことをしてしまっただろうか。だが私も命が惜しい。少なくとも彼を見つけ出すまでは生きていたい。そのためにこんなわけのわからない屋敷を訪問したのだ。彼の自称叔母の手の平でくるりと踊ってみせなければ彼に会わせてもらえないのだから。 「どうすれば名前がもらえるの?」 「え、あ」 「お得意先を増やすわけでしょ。営業みたいだね」  私から遠いほうの障子が開いた。少年は電気が走ったように立ち上がる。顔を出したのは先ほどの和服の男であり、少年を見遣って卑下したような笑い方をした。雨上がりに道端で潰れていたカエルをさらに踏みつけるみたいな残酷さだった。 「先生を持て成せゆうたはずや。耳ないんか」 「ごめんなさい」 「消えろ」 「すみません、僕は」 「往ね」  少年が泣きそうな顔で額を畳につける。涙は出ていないがすでに破裂寸前だろう。 「あのですね、僕のせいで彼が追い出されたり嫌な思いをするのなら非常に心苦しいんですが」 「ホンマ先生は優しいな。ええよ。今日のとこは先生のお顔に免じて許したるよ。もうこないな真似すんなよお」  少年はよろよろと力なく立ち上がって私と和服の男に三回ずつ頭を下げて部屋を出て行った。  和服の男はふんともすんとも言わなかった。この男は少年のことを同じ種族だとは思っていない。彼が死んだら野山に捨てて調教済みカラスによってたかって啄ばませるだろう。それを見ながら平気な顔で酒盛りをするのだ。 「あれはお気に召さんかったんか」 「誰であっても気に入りませんけど」 「ツネに似てる思うたんやけど単なる失礼やったね」 「儲かるんですか」 「儲からなやらん。ツネに逃げられたんは誤算やった」 「息子の扱い方が間違ってませんか。だからあの人に」 「あいつもやっとることはおんなじ。縄張りがちゃうだけ」 「連れ戻すことは考えなかったんですか」 「無理に連れ戻しても使えへん。そんなら気ィが変わるまで誠意ゆうもんみせたほうがええ。いまは放任期」 「引き取られた家からも逃げたそうですがチャンスでは?」 「ツネはそんなにえかったんか、先生」 「いくらですか」 「買うてくれるゆうお得意さんはおるよ。そらまあ腐るほど。俺はできるだけ沢山の人と仲良うしたいね。そのほうが」 「儲かりますね」  和服男は笑う。その顔が彼にそっくりですごく厭だった。  自称彼の叔母の発言が浮かぶ。確かに瓜二つだった。口の両端だけを上げて笑うという行動まで。 「居場所知ってるんですね」 「先生に任せるわ」 「帰ってもよろしいですね」 「そらまどうぞご贔屓に」  庭の雪は絶対に人工だ。天候もある程度はカネで買える。  玄関まで通じている廊下に私が彼に勧められて買ったあの絵と同じものがあった。同じレプリカでも飾る場所によって印象がずいぶん変わる。靴を履いていたら、離れに案内してくれた少年がこっそり顔を出した。眼の周りが赤く腫れている。ずいぶん泣いたのだろう。 「名前つけてもらえるといいね」 「あ、はい。お気をつけて」 「ヨシツネ君が見つからなかったら君にしようかな」  少年の顔がほんの少し緩む。確かに笑顔だけなら彼に似ているかもしれない。同じ遺伝子が入っているという可能性もある。  敷地の外に出た瞬間に激しい頭痛が襲ってきた。頭蓋骨の両側からキリで穴を開けられているみたいだった。このままでは貫通してしまう。私は路肩で蹲る。風がびゅうびゅうと吹き付けて寒いはずなのに額だけが異常に熱い。頭と足の先の温度差がありすぎる。さながら月だ。水星でも金星でもいい。強引に塞き止められていた痛みが一気に押し寄せている。もう頭痛薬なんか何の意味もない。吐き気もしてくる。三歩進む度に五分蹲る。駅まで辿り着くことが出来ない。  それを意識した途端どうでもよくなってきた。移動に興味が持てなくなったのだ。人も車も通らない道があるとすればそれは誰のための道路だろう。地図に記すための道路だろうか。道路を造る人々のための道路だろうか。なんとも形而上学的な道路だ。  枯れ葉が散らばる合間に小径を発見する。来るときは気がつかなかった。一本道の分岐として存在しているのだから気がついてもよさそうなのに。緩やかな坂になっている。下っているのだ。遠くで水の音がする。単に喉が渇いただけかもしれない。  狭い道だ。行き違いは出来ないだろう。両脇に鼻の辺りを撫でる枯れ草があってくしゃみが出そうだった。こういうときにだけ背が低いことを思い出す。和服男に指摘されたことはもう忘れた。  泥のぬかるみ具合がひどくなってきた。水の音も近い。川が氾濫しているのだ。それか蛇行の兆しか。川の源流みたいだった。岩と岩の隙間から水が流れ出してそれの行き場が確保されていないため、已む無く地面に吸収してもらうしかない。私はそこで手を洗う。草に触れて切ってしまった傷口には冷たい水がしみる。  見上げると、さっきの屋敷の塀が確認できた。裏口からここまで下りる道が切り拓かれている。ここいら一体はすべてあの和服男の所有物なのだ。  岩に沿って歩くことが出来そうだった。水浸しなので靴を置いていくことにする。足を切らないように尖ってない部分を見極めながら進む。だんだん水気がなくなってくる。代わりに苔類がみっしりと生えている。気持ちが悪くなってきた。頭痛もいよいよ麻痺してくる。こめかみから上の部分がぽっかり空いているみたいだった。鏡があれば見てみたい気もする。さぞ奇怪だろう。  足の感覚がなくなってきたので立ち止まって足を触る。目視は意味がない。触らないとわからない。足は何とか足首についていた。両足とも無事だ。突き当りに洞窟のようなものが見える。急いで靴を取りに戻る。それを手に持って洞窟の前まで行く。  ハンカチで水気と汚れを取って靴を履く。しばらく変な感じだった。こんな気持ちの悪いものを履いて歩いていたらしい。足の表皮を覆うつるりとした膜のようだった。  私の声を聞きたくなってあーあーと言ってみる。テープに録られたときよりも奇妙な声だった。誰か違う人間が私の口の動きに合わせて声を吹き替えしているみたいに。  洞窟らしき穴は真っ暗だった。自然に出来たものではない。雰囲気はトンネルに似ており、線路や道路の下に作られる地下道のようにも思える。時間と共に出口の位置が変化しない限り戻ってこれるだろう。そう信じるしかない。  ずきずきうるさい私の脈が察知する。この奥に何かある。

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