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第9話

 不可思議なにおいが立ち込めている。生物と無生物が競い合った結果両方とも滅んでしまったかのようなにおいだ。死ではない。むしろ禍々しいほどの生の気配で満ちている。滅んでもなお生の記録を残し続けようとしている。どうやら私の頭痛はこのにおいを感知すると和らぐ傾向にあるらしい。  人工とはいえトンネルだけあって内部はとても冷える。ここだけ季節を先取りしている。冬は寒く、夏は涼しい。あたかも避暑地のような気候だがこんなところで夏を過ごしたくない。  錆びついた鉄の柵が下りている。隙間は片手を通すのが限度だ。奥に鎖のようなものが見える。何かを閉じ込めておくには最適な場所であり、実際そのような目的で使われているのだろう。少年が怯えていた折檻はここで執り行われると思って間違いはない。寝転がったら余地がなくなってしまうほどの広さの牢が五つ並んでいる。左右に二つずつ、突き当たりに一つ。鍵穴らしい鍵穴がないので柵自体を上げ下げするのだ。獰猛な動物を飼うことも出来そうだ。  突き当たりの牢の前に立ってみる。五つの中で一番異質でグロテスクな空間だった。旦那様とやらの機嫌の損ね具合が最も大きかった者がここに収容される。私はあの少年のことを思い遣る。しかし少年は少なくとも当分はここには容れられない。容れることが出来ない。この確信は勘でもなんでもない。今現在ここは使用中なのだから。 「今度はなに?」  第一声に凄まじい棘と敵意が含まれていた。私以外の人間を予想していたのだ。おそらく、いや絶対に和服男だ。 「僕だよ。たぶん助けに来たんだと思う」 「おっさん? ああ、帰ったほうがええよ」 「どうやったら出られるの?」 「今日何日なん?」  彼は仰向けに大の字になってあさっての方向を眺めている。中指の爪が割れていた。肌の色もくすんでいる。服もほとんど着ていないに等しい。  私はおぼろげな記憶を辿って日付を教える。ついでに時刻も教えてあげた。 「僕のところからいなくなってすぐにここに?」 「そんなん忘れたわ。せやった、おっさんに謝らなあかんね。もろうたカネな、ぜんぶ失くしてしもて」 「いいよ。檀那様とやらに奪られたんだね?」  彼は相当弱っているらしく動きは鈍磨だったが声だけはまだ活力があった。速さも内容も彼のいつものペースだ。私を気遣って無理に声を出してくれているのかもしれない。彼の左手がピクッと動く。随意運動ではなく不随意運動のようだった。勝手に痙攣的に動いてしまっただけのように見える。 「寒くない?」 「もう慣れたん。感覚遮断しとってわからへんし」 「君の父親とやらに会ったよ。君をもらいに行くつもりだったんだけど断られちゃった。君の値札すら見せてもらえなかった」 「明日出れるよ。せやから放っといてくれへんかな」 「本当に出られるの? 期限なんか守りそうにないけど」 「試験があるん。まあ心配せんといて。ここに入るんは初めてやない。慣れっこ」 「どういう試験なの?」 「聞かんほうがええよ。一ヶ月、なあんも食べられなくなる」 「構わないよ。僕が少食だって知ってるよね」  私は悪あがき的に柵を揺らしてみたがびくともしない。金属音すら聞こえない。手のひらにべっとりと油らしき粘液がついて不快になっただけだ。  彼はやおら寝返りを打って私を見てくれた。眼が濁っている。あの和服男に濁らされたのだ。表情がない。感情を掃除機で残らず吸い取ってそのあと瞬間冷凍されてしまったかのように何もなかった。 「言いたない。堪忍な」 「君の叔母とやらにも会ったよ。奥様とやらと檀那様とやらはグルだよね。あの二人は代わりばんこに君を使ってカネを儲けているわけだね?」  彼は瞬きすら億劫そうだった。物理的な打撃というよりは分泌系に傷害を与えられて涙が出づらくなっているみたいだった。その影響で眼の周りが干上がっている。まともに食事ももらえていないのだろう。ただでさえ細身なのにやつれてしまって見るに耐えない。生かさず殺さずぎりぎりのところで生かされている。殺してしまったら役に立たなくなるから。 「なあおっさん、お願いやからホンマ帰ってくれへんかな。一人になりたい」 「僕の心配をしてくれてるんなら平気。僕はこう見えて結構ヤバいことしてたことがあるから。明日までここにいるよ」 「おるんは勝手やけど、そないなことで俺は手に入らへんよ」 「じゃあどうすれば君が手に入るんだろう」  彼は反対側を向いてしまう。ずかずかと土足で踏み込んでいっても彼には拒絶される。しかしずかずかと踏み込む以外に彼に近づく術がない。不可能なのだ。  だからこそ和服男は、牢に彼を監禁せざるを得ない。着物女はそれを踏まえて緩く規制していたのだろう。むしろ野放しに近いかもしれない。だがそうすると彼は逃げ出してしまう。二度と戻ってこない。中庸をとれない。我々には限度がわからない。 「君はどうやって生活したいと思ってるの?」 「自活やね」 「だから僕のとこで働いてたわけだね。またそうすればいいよ」 「せやなあ。ええ稼ぎやったし」  頭痛が鮭のように戻ってきた。彼と話したおかげだ。私は鉄と鉄の合間から片手を差し入れる。腕の関節まで入った。あと少しで彼の手に触ることが出来る、というところで彼が跳ね起きた。私はビックリした。思わず手を引っ込めてしまう。 「これ、演技やったらどないする?」 「どうもしないよ。元気ならそれだけでうれしい」 「アホお」  彼はあの独特の笑い方をしてくれた。やはりこちらのほうがオリジナルだ。和服男がコピィなのだ。  彼は機敏に立ち上がって天井に手をつける。天井が低いのか彼の身長が低いのかわからなかった。私の眼線から見るとほとんどの物が巨大に見える。どうやらそこに抜け穴があるようだ。 「あれはここまで入らへん。カメラはあるけどね」  彼の眼線の先にレンズがあった。ほぼ天井の位置だ。壁に埋め込まれているらしく本体が見えない。 「ばっちり観られとるよ、おっさん。どないする?」 「言い訳するよ。うっかり迷い込んだって」 「ばいばいね」 「一億払ったら君は僕の家に何日いてくれる?」 「半日」 「高いね」 「俺は売りもんやないゆうたやろ? いくら払うても半日」  私は財布から紙幣だけを出して牢の中に落とす。彼はそれを数えもせずにポケットに捻じ込んだ。 「前払いしとくよ。来てくれないと困るから」 「守らへんかもしれんよ。そうゆうの得意やから」 「いいよ。通過したカネに興味がないんだ」  彼は天井の穴からさっと消える。私は出来るだけ息をしないように来た道を引き返す。頭痛がひどくなってきたのだ。頭蓋骨が圧迫される。呼吸に応じて脈が加速する。しかしあのにおいのせいですぐに治ってしまった。  眼に光が突き刺さる。眩しい。  苔むす岩場を抜けたあたりで和服男が裏口から出るのが見えた。無理に誂えた坂をゆっくりと下りてくる。 「行く場所間違ってませんか」 「先生に用があった。ツネやったらいまごろ夢の中。楽しい夢を見とる」 「ご冗談を。悪夢でしょうに」  和服男は携帯電話を取り出してぼそぼそと命令する。用件を述べたのではない。この男の発する言葉はすべて命令なのだ。他者を隷属させるためだけに和服男の音声は存在する。 「あの穴はわざとですね」 「ツネなら見つける思うとったよ。あれは最高傑作。そう易々と手放したないな」 「そもそも売り物じゃないんですね。見せびらかすための」 「羨ましいやろ先生?」 「羨ましくて仕方ないですね。嫉妬で気が狂いそうです」  和服男は厚みのない封筒を差し出す。名刺が何枚も入っていた。名前がある者たちの呪いの札だ。それと幾ばくかの紙幣。偶然とは思えないが、彼にあげた額とまったく同じだった。ほとんど手持ちがなくなった私の帰りの交通費を慮ってくれたらしい。 「またご贔屓に」 「機会があれば」  私はぬかるんだ坂を上がる。和服男は草履についた泥を湧き水で落としている。  鼻をくすぐる草を掻き分けていたら黒塗りの車が眼の前を通過した。屋敷のほうに走っていく。後部座席の窓に色が付いていて内部が見えないようになっていた。  私は駅までの道を反芻する。

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