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第3章 蔦鶴ツタツル Conflict Red Head
1
気づいたら湯船に浸かっていた。お湯はすごく温かいはずなのに身体の芯が冷えて顎がガチガチいう。
湯気が立ち込めてて何も見えない。ぼくは生きているのだろうか。それともとっくに死んでてお風呂に浸かってる夢を見てる?
湯船から上がって椅子に腰掛けてみる。痛い。先っぽがひりひりする。
そうだった。ぼくはヨシツネさまを。
なんてことを。ぼくはまた死罪に等しい。お尻もひりひり痛い。触ったらすごく熱かった。長い間湯船の中にいたせいじゃなさそうだ。感触がまだ残っている。
シャワーを頭から被る。湯が当たると痛い。痛い。頭も痛いしお腹も痛い。体中が痛い。ひりひりひりひり。火傷したみたいだ。
「まきちよくん」キサガタさんがのぞいてた。
ぼくはうなずく。
「あんまり入ってるとのぼせるよ。そろそろ出よう」
ぼくはうなずく。バスタブの栓を引っこ抜く。湯が排水溝に向かう。
キサガタさんはふわふわのバスタオルでぼくの身体の水気を取ってくれる。
きもちいい。
「ねえ、僕も舐めていい?」
ぼくなうなずく。
キサガタさんが舌を這わせる。
「セスイケさまがいらっしゃったんだってね。僕も会いたかったな。すごいね。セスイケさまにも気に入られて。うらやましいよ。僕なんか」
キサガタさんがすごく強く吸う。尿道の奥の奥まで舌が入ってるみたいだった。
ぼくは立ってられなくなって壁に背中をつける。でも脚の力が抜けてよろよろと床に座り込む。痛い。
キサガタさんが指を入れる。
「僕にもちょーだい。ホントはね、一日一回飲まないとダメなんだ。頭がぐらぐらしてぼんやりして自分が何をしてるのかわからなくなる。ねえ、お願い」
ぼくは射精する。尿道がぴりぴり痛む。キサガタさんが尿道に舌を入れてるからかもしれない。
ぼくの精液はすべてキサガタさんの喉の奥に流れ込む。
「ありがとう。すごく美味しかったよ」
キサガタさんはぼくの髪の毛を乾かす。
熱い。
ぼくに着物を着せてくれる。今度はこないだの逆で、藍が基調で白い模様が入っている。ぼくの乳首は触られる前からがちがちに硬くなっていてキサガタさんにくすっと笑われてしまう。
熱い。どうしてこんなに熱いんだろう。
ぼくがぼんやりしてる間に夏になってしまったのだろうか。そんな。まだ雪だるまもつくってないのに。
「すぐにごはん運ぶからね。部屋で待ってて」
ぼくは、殿と庵の交わる廊下でキサガタさんと別れる。でもどっちに行けばぼくの部屋なのかわからない。キサガタさんが右に行ったんだから、ぼくは。
あれ? 右の反対ってどっちだっけ。左? 左ってどっち?
わからない。何もわからなくなる。
檀那さま。もうお屋敷にはいらっしゃらないのだろうか。忙しいといってた。セスイケさまは。
雪だ。白い塊が舞ってる。はらはら。
ぼくはうれしくなって裸足のまま外に出る。
いいにおい。檀那さまが仰られていた雪のにおい。ひんやりしてきもちがいい。とてもいいきもち。宙に浮きそうなくらいうきうき。
ぼくは雪を食べる。
冷たい。シロップはないけどカキ氷みたいだ。
「風邪引いちゃうよ?」キサガタさんが膳を持って立っている。
白米とアサリの味噌汁と焼き魚とおひたしと。
「雪だるまつくりたいんです」
「いいね。でもごはん食べてからにしようよ。冷めちゃうから」
部屋でごはんを食べてから、ぼくらは雪だるまをつくった。小さいのから大きいのまで。並べるとすごく面白い。ロシアのあれみたいだ。あれ。名前がわからないけど。
「また降ってきたよ。寒くなるね」
大きな雪の塊。もっともっと積もれ積もれ。お屋敷を覆い隠すくらいに。
ぼくはキサガタさんの手を握る。
アカギレだらけの手。息を吹きかける。
「あったかいですか?」
「うん、あったかいよ。すごくあったかい」
キサガタさんは、ぼくの手を自分の頬につける。
冷たい。
氷の塊みたいな肌。
「ねえ、どうしてきみはそんなに僕に優しくしてくれるの? いままで誰も僕なんかと遊んでくれなかったのに。知ってると思うけど、僕は檀那さまに好かれてない。だから僕なんかと仲良くしてたらきみが」
「キサガタさん」
「なあに?」
「一緒に雪だるまつくるくらい、いいんじゃないですか?」
キサガタさんは泣きそうな顔になる。微笑んでるのかもしれない。
わからない。
ぼくは頭が悪いから、そうゆうのがぜんぜんわからない。
「ありがとう、まきちよくん」
次の日、キサガタさんはぼくを起こしに来なかった。代わりにヨシツネさまがぼくを踏んづけた。ちょうどお尻のところを。
ぼくは飛び起きる。わざと痛いところを踏んだみたいだった。
「なんぼでも寝腐れとるんやないえ。ぐうたらしとる暇あるんやったらカネ稼げ」
ぼくは寝ぼけ眼で服を着替える。淡いオレンジ色のシャツに紫のネクタイ。白いダッフルコート。これもキサガタさんに買ってもらった服。
キサガタさん。どうしたんだろう。これはキサガタさんの仕事のはずなのに。
しかもよりにもよってヨシツネさまがぼくなんかを起こしにきてくださるなんて。
白のシャツの上に淡い空色のセータが追加されてる。深紅のマフラがふよふよ。小柄な身長と釣り合えないほど長い。ヨシツネさまはまたしても黒の学ランを羽織っていた。
ぼくは昨日(昨日かもしれないけどわかんない)のことを思い出してしまう。
「お前ずえったいぶっ殺したるさかいにな。おもて出ろや」
「え、そんな」
「そんなやないやろ? 俺にナニしおったかゆうてみ? けったくそわるい。いっちゃん新入りのくせにクソ生意気な」
ぼくは土下座して謝る。ヨシツネさまはそのためにぼくなんかを起こしにきたのだ。ようやくわかる。ぼくはヨシツネさんに頭をぎゅうぎゅう踏みつけられても文句を言える立場なんかない。
それじゃあキサガタさんは調理場?小屋?
「あの、ぼくでよければ」
「やらんわ、ずアホ。俺はとっくにどーてーやないの。それにお前のケツ掘ったとこでなんも解ケツせんわ。ああオモロない。洒落ゆうてもべこべこに凹むだけやわ」ヨシツネさまは複雑な表情で頭を抱える。
自分で言っといて。だからぼくは黙る。黙って頭を踏まれ続ける。
「げんき、ですね?」
「げんきィ? 元気に決まっとるやろ? 俺はな、あのヨボにケツ掘られたときもいっかがわしい薬注入されたときも意識はあったん。なんで抵抗せんかった思う? あのヨボはな、出すもん出して眼で興奮させたったら満足しおって帰るん。ああも、お前がおらんかったらあのままぷっつり終わっとったのにクッソ。なんで中出しされなあかんの二発も。おま、どーてーのくせにナマで掘りおってぶっ殺したる」
「ごめんなさい。あの、ぼくは本当にとんでもないことを」
「あーもー、やかまし。すまん思うんやったらカネ寄越せ」
「あの、もしかして、檀那さまの」
「せやったらなに?」
本当なんだ。
本当の本当にヨシツネさまは檀那さまの。
「なんやのその顔?嫉妬? アホやないの? 俺はあないなもんいらへん。熨斗付けてくれたるわ、有り難く貰っといたらええよ」
結局ヨシツネさまと同時にお屋敷から出たので、キサガタさんに会えなかった。どっちにしろ朝食はもらえないけど、会えたとしても一瞬だったと思うけど、それでもぼくはキサガタさんに会いたかった。
一緒につくった雪だるまはまだ残ってる。でも今日晴れてしまったら溶けてしまう。
また雪が降ればいい。そうすればもう一度一緒につくれる。
「腹減ったな。なんや喰お」
「え、でも」
「はいはい、奢ってもらうだけの人は黙っといてね」そうゆうと、ヨシツネさまはうどんと書かれた暖簾をくぐる。
いいにおい。ぼくのお腹がぐうと鳴る。きゅう、かもしれない。
お店はそんなに広くない。席はぜんぶ埋まっても十人が限度。ヨシツネさんがカウンタに座るとお店のおじさんが久しぶりやね、と話し掛ける。知り合いなのかな。
ぼくは隣に座らせてもらう。お客さんはほかに二人。
「どないしたん? なかなか顔見せへんで」
「心配かけてすまへんね。俺もいろいろ多忙なん。ああこれな、俺のしゃてー。残りもんでええよ」
ぼくははじめまして、と頭を下げる。
お店のおじさんはこりゃま丁寧に、と言って頭を掻く。髪の毛はほとんどない。にこにこしててすごく優しそうな人だった。
「残りもんやゆうわけにいかへんよ。よしちゃんの舎弟さんやさかいに」
「しらんしらん。早ようして。腹減って死にそうやわ」
すぐにうどんが出てきた。二つあるってことはぼくの分?
おじさんは相変わらずにこにこしている。ぼくはいただきます、と言ってうどんをすする。美味しい。
ヨシツネさまはもう半分以上食べ終わっている。ぼくもあっという間に食べ終われた。すごく美味しかったから。
「これ、舎弟さんにさーびすね」
おむすび二つとたくあん。ぼくはお礼を言う。
ヨシツネさまが横から手を出しておむすびを1つとった。
「ああ、よしちゃんのはこっちに」
「遅いわ。ほら、会計な。行くえしゃてー」
ヨシツネさまは丼の横におカネを置いて出て行ってしまった。ぼくの分も。
ぼくはおむすびを急いで口に入れる。
「気ィつけてな」
「はりはとほはいはふ」
ぼくも外に出る。ヨシツネさまはたくあんをばりばり食べていた。二つあったうちの一つをぼくにくれる。
いつの間にとったのだろう。お米がのどに詰まりそうだ。
「どんくさいな。なんで俺がうどんにした思うとるの?」
「ほへんははい」
ヨシツネさまが溜息をつく。ぼくはようやくお米を飲み込む。種無しの梅が入ってた。たくあんも美味しい。
ヨシツネさまはぼくに温かいお茶を買ってくれた。自販機高いわ、とぶつぶつ文句を言われたけど、ぼくはすごくうれしかった。
うどんのおかげで身体が温かくなる。それでうどんにしたのかな?
「メールは?」
「ないです」
「こりゃバレとるな。まきちよ、お前何人相手した? ヨボ入れて」
「えっと、よ、じゃなくて2人です」
「ふたり? へ、ちょお少のうない? ああ、せやったね、お前最初の」
ツツボさんと1ヶ月以上一緒にいたせいだ。ぼくはあの人相手にしか稼ぎがない。
うっかり先輩たちをカウントに入れそうになった。違うのだ。あれはぼくが勝手にひょいひょい付いてっただけで。
もうあんなことはしない。檀那さまに誓って。
「あの、ぼくのこと知ってるんですか?」
「まあな、ゲボが浮かれとったさかいに。むっちゃ儲かったゆうて」
歩道の雪は溶けかけてる。車道のは人為的に溶かされた。
ヨシツネさまは歩くのがすごく速い。ほとんど走ってるようなスピード。ぼくより小さいのに。脚だってぼくのほうが長いのに。
じっと待ってるのも嫌いらしくて、電車を待ってる間はホームをあっちこっちうろうろ。ぼくもついていこうとすると大人しくしよれ、といって怒鳴られる。交通費。自分の分くらい払えればいいんだけど、キサガタさんからメールが来ないからダメなのだ。
ぼくは、ヨシツネさまに負んぶに抱っこしてる。地下鉄で三十分くらい。
海だった。
びゅうびゅうと風が吹きつける。大きな観覧車。いろんな色のカゴがあってすごく綺麗。
ツツボさんとごはんを食べたホテルから見えたのと同じものだろうか。夜だったからわからない。夜じゃなかったとしてもわからない。
ヨシツネさまはあかんわ、と呟きながら空を見上げる。灰色の空。
「雪やわ」
「雪だとまずいんですか?」
「寒い」
ぼくは笑ってしまう。
ヨシツネさまはぼくを睨みつける。
「ごめんなさい」
観覧車目掛けて歩いてる気がする。あれに乗るのかな。でもそれを横目に違う建物に入る。魚の模様の。
水族館だ。ヨシツネさまからチケットを受け取る。
「何するんですか?」
「夜まで暇潰し。魚嫌いなん?」
「いえ、あのぼく、水族館て来たことなくて」
「ほお、そか。せやけどでっかい水槽があるだけ、大してオモロないえ」
と無感動に吐き捨ててた割には、ヨシツネさまは楽しそうだった。集団で見学に来てた幼稚園児とか小学生もいたんだけど、その子たち以上にはしゃいでたと思う。
面白い魚がいるとぼくを呼びつける。変な魚がいてもぼくを呼びつける。大きな魚がいてもやっぱりぼくが呼ばれる。
これのおかげで迷子にならずに済んだ。薄暗いから人の顔がよく見えないのだ。はぐれそうだったのはもちろんぼくじゃない。ぼくは順路に従ってただけだし。
「な? 大したことないゆうて」
ぼくはうなずく。ヨシツネさまがサメの水槽に二時間もいたことは忘れることにする。
ホットココアを買ってもらった。水槽を見ながら飲めるなんてすごい。
「ここ、ウソくさいVIPルームゆうのがあるん。個室や個室。アホや思わへん? VIPがこないなとこ来おってなにするんやろね、ホンマに」
「来たことあるんですか?」
ヨシツネさまは眼を細める。
すごく怖い顔だからぼくは眼を逸らしてしまう。ヨシツネさまのお気に入りのサメが通り過ぎる。
「さあなあ、でやろ」
外は雪が舞っていた。
ヨシツネさまは寒い、と言って建物から出ようとしない。おかげでおみやげを見る時間をもらえた。
ぬいぐるみ。ヨシツネさまの好きなサメもいる。
サメなのに可愛い顔。
「お前、そんなんが欲しいん?」
「あ、いいえ」
「買うてもええけど、あのゲボに解剖されるえ。はらわた出してぐっちゃぐっちゃに」
「え」
ヨシツネさまは、ぼくの手からぬいぐるみを取って、元あったコーナに戻す。
崩れそうな山。
「逃げるときにな、邪魔んなる」
ヨシツネさまは檀那さまのお屋敷で一生を過ごすつもりじゃない。
本当に逃げれるのだろうか。逃げたら殺されてしまうのではないだろうか。
洞窟で大人しくしてるだけじゃ許してもらえない。
「今日の客な、ちょお遠いとこにおるん。どないする?」
「どうって、あの」
「無理強いはせえへん。ただ、逃げたいのに逃げれる方法が浮かばれへんで困っとるんやったら力になる、ゆうだけ」
ぼくは何てゆうべきなんだろう。わからない。
ぼくはどうしたいのか。
ぜんぜんわからない。檀那さま。キサガタさん。
「キサか?」
ぼくは何も言えない。
ヨシツネさまは何も言わずに外に出る。あんなに寒い寒いって言ってたのに。深紅のマフラが靡く。
噴水が風で逸れて地面の雪を溶かす。
ヨシツネさまは観覧車の前で止まる。
「乗りたいのと違う?」
どうしてわかったんだろう。ぼくは小さくうなずく。
ヨシツネさまは笑う。
口の両端だけを上げて。
「一周だけな」
ぼくらはレモン色のカゴに乗った。待たずに乗れた。係の人がちょっと困った顔をしていた理由がようやくわかる。
風でがたがた揺れる。怖い。上に近づくにしたがってさらに強く揺れる。ぼくは外を見れない。大好きな雪の源に近づいているというのに。
ヨシツネさまはチケットを買ったときからずっと黙ったまま。横顔。
その眼に映ってるのは海?
それとも空?
ぼくは以前にも観覧車に乗ったことがある。お父さんと乗った。本当はすごく怖かったんだけどお父さんが手をつないでてくれたから、ぼくは勇気を出せた。
あの日はすっごく晴れてたと思う。風なんか吹いてなくて。春だったかな。夏だったかな。お父さん。
何が見えたっけ。何も思い出せない。
本当に乗ったのに。観覧車。
乗ったことだけしか思い出せない。大きな大きな観覧車。
雪が窓ガラスに当たる。扉の隙間から冷たい風が入り込んでくる。カゴの中のほうが寒いかもしれない。
ほんの微かにヨシツネさまが震えている。無理してくれている。
ぼくは申し訳なくなる。せっかく乗らせてもらったのに、ぼくは外なんか見ていない。
一周十五分。
それがぼくに与えられたタイムリミット。
電車が来るまでの数分だって待ってられないヨシツネさまが、どんくさいぼくなんかを待ってくれている。
でも、ぼくは観覧車を降りても何も言い出せなかった。お昼は食べなかった。ヨシツネさまがどこかで食べてる間、ぼくは観覧車のそばのベンチに座ってた。
寒くなかった。ぜんぜん寒くない。
温度を感じるセンサが故障している。
ぼくは壊れている。
とっくに手遅れなんだ。ぼくはヨシツネ様に話しかけてもらうだけの価値もない。
地下鉄に乗る。
「まきちよ」
ぼくはうなずく。
ぼくの名前はまきちよ。ぼくは返事をしなければならない。
元気よくはい、て。
「キサが好きなん?」
ぼくは。
ぼくはキサガタさんが。
「ダメなんですか?」
「俺がダメやのゆえることやない。俺かてわからへんわ」
ごとんごとん。
「俺は、たぶん逃げられへんよ。往ななっても無理やわ。死体もゾンビにされて一生ゲボの元でカネ稼がなあかん」
ごとんごとん。
「え」
ヨシツネさまはぼくを見る。すごく優しい顔。
ぼくは何故かお父さんを思い出す。檀那さまじゃなくて。
ヨシツネさまは檀那さまにそっくりなのに。同じ顔なのに。
ぼくを生かしてくれているのは他ならぬ。
「お前なら間に合う。まだ、ゆう但し書き付やけどな。なあ頼むから、逃げ?」
ぼくは手の上に何かをのせられる。
ぬいぐるみ。ヨシツネさまの好きなサメの。
ぼくはうなずけない。
お父さんの顔が消えない。
2
逃げて。逃げてにげてもダメ逃げたらダメだけどダメだってわかってるけど声がぼくは耳を塞ぐ息を止めたい息を吸わないでいられれば逃げれるのに鼻と口を手で覆うぼくの手じゃないぼくの手はもっと。
「小さいやん。俺はそっちの」
「ごめんごめん。よし、取ってこよう」
おじさんが立ち上がる。お皿を持ってヨシツネさまの隣に座る。よっこいしょ、て。
ぼくの隣にいるおじさんが何か言ってる。口が動いてるけど声が聞こえない。聞きたくない聞いたら逃げられないぼくは階段の裏に隠れるダメだほこりくさくてぼくは咳き込む咳き込んだせいで足音が近づくぎいぎいぎいぼくは入り口を。
「塞いだったらあかんえ。カニ食わへんの?」
ぼくは首を振る。
カニなんか食べたくない。カニ。ハサミだポケットにハサミがあった。それを持ってじっと耐えるぎいぎいぎこんこんぼくはハサミを握り締める柄の部分刃先は戸に。
「剥けへんのやけど」
「じゃあ私が食べさせてあげようね。ほら、これは大きいだろ?」
ヨシツネさまの口にカニが入れられる。ヨシツネさんの隣のおじさんがうれしそうな顔をする。
「きみは食べないのかい?」
ぼくは首を振る。
いらない。何もいらないこんこんこん優しそうな声演技ウソウソぼくは知ってるわかるこんこんこんがらがら指イヤな指嫌いきらいだぼくはそれ目掛けてハサミを振り下ろす。
「刺さらないな。おい、誰か」
襖がするすると開いて着物の女の人が出てきた。ヨシツネさまの隣のおじさんは何かを手渡す。着物の女の人は何かを言って襖を閉める。すぐに戻ってくる。
何かを持って。なんだろうわからない悲鳴ひめい喚く走るハサミを捨てる血がついてるイヤだ汚れてしまったせっかく買ってもらったのにぼくのハサミお父さんごめんなさ。
「いいかな、そろそろ」
「よう見たって。カニ残っとるんやけど」
ヨシツネさんの隣のおじさんと、ぼくの隣のおじさんは眼を合わせて困った顔をする。席を立った。
ヨシツネさんはカニを食べる。カニカニぼくは走った走って走ってはしってもダメダメなんだダメぼくは思い出すでもぼくはイヤだイヤだイヤだよお父さんどうしてぼくをこんなところに連れて。
「まきちよ?」ヨシツネさまの声。
ぼくはうなずく。ヨシツネさまはぼくの隣に移動している。移動ぼくは戻る走って走って歩くぎいぎいぎい床が軋む古い廊下暗い照明オレンジの明かり黒い液体マルとマルと丸ぽたぽた悪い子だ悪い子だねきみは。ぼくは首を振る。ぼくはハサミなんか持ってない何もしてないポケットにハサミなんか。
「どないしたん? 顔色悪いえ? 休むか?」
ポケットにハサミを入れたことなんかない危ないよ脚に刺さるよカバーもなしに入れないよ。ぼくは首を振る。じゃあこれはなんだハサミあっちにあったんだ私の部屋に入ったんだね入ってません誰なんですかあなたは私のことは知らなくていいよきみのお父さんから何も聞いてないならお父さん。お父さんぼくを助けて。
「その子が具合が悪いなら仕方ないよ。私たちは構わない。最初からきみしか呼んでいないのだし」
「あんなあ、今回はセットプランやさかいに、二人セットやないとあかんえ。俺がカニ食べるまで大人しう」
「きみね、さっきから聞いてればカニカニカニ。私たちはカニなんか食べるためにきみを呼んだんじゃないよ? もう支払いは済んでるんだ。文句があるなら畿内 の檀那に」
「檀那? そんなんあんさんらが気安く口利けるお人やないえ。ここ、平気なん?」ヨシツネさまは、にやりと笑って自分のこめかみをつつく。
おじさんたちがテーブルをひっくり返そうとするところを、ヨシツネさまが止めた。
テーブルに足をのせて。
「よう溜まってはりますなあ。そんなんやったらお仕事にも支障でとるのと違うん? 濡れ場の会議室とか派遣をデリヘル代わりにしとる、とか」
おじさんたちの顔が真っ赤になる。カニの甲羅みたいだ。カニカニハサミは捨てたぼくはハサミを持ってないだから逃げられないお父さんわかってますごめんなさいぼくは逃げませんお父さんの言いつけどおりじっとしてます。じっと眼を瞑ってれば終わるいい子だねぼくはうなずく。お父さん終わったら迎えに来てくれますか。
「きみ、いま自分が何を言ったのか」
「わからへんね。すまんけど俺、ちっさいお子やから」
おじさんがヨシツネさまに襲い掛かる。
ヨシツネさまはカニのはさみをおじさんの鼻先に突きつける。
ぼくは動けない。ぼくの隣にいたおじさんがぼくを後ろから拘束している。硬いもの。おじさんの股間の硬いものがぼくのお尻に当たってる。
「ええか、そこの下っ端。そいつ犯りおったらじじい殺るえ?」ヨシツネさまは、ぼくの聞いたことない低い声で威嚇した。
それでもぼくは動けない。おじさんのがもっと硬くなる。ぼくのお尻がむずむずする。
でもダメだ。たぶん今日はこのまま退散になる。
雪が降ってる。
ヨシツネさまはケータイを耳に当てる。
ぼくはポケットを探る。サメのぬいぐるみ。かわいい。
「すまへんな。たまにああゆうのおるん。ゲボもわかっとって俺遣わすさかいに、いちいち最悪やわ」
「これからどうするんですか?」
おじさん二人が伸びてる。
カニは見事に殻の空っぽ。
「お、まきちよにしたらまともな意見やね。野宿はないさかいに、安心しぃ」
外に車が停まってた。白い車かと思ったらそうじゃない。もともとシルバなんだけど雪が積もってて白くなってただけ。
「気にせんでいいぞ。すぐに掃除機を遣った」
「そらまあおおきに」
後部座席はかなり広めだった。
にこにこしてる車椅子のおじさん。おじいさんかもしれない。髪がセスイケさまほど白くないからやっぱりおじさん?
小柄でぼくより小さい。ヨシツネさまより小さいかもしれない。ベージュのジャケットに淡い桃色のセータ。
帽子をかぶって杖を持ってそうなおじいさん。
「なあに、貸しは山ほど作っといてやるわい。お前さんを独占したいからな」おじいさんはヨシツネさまの手を握る。
ヨシツネさまはにやりと笑った。
「やってくれるかな?」
「ええよ、送迎代ね」
ぼくはどきりとした。ヨシツネさまが、急にズボンを下ろして。おじいさんの向かいに座ったまま。
おじいさんはにこにこしながらヨシツネさまを見てる。
ぼくもヨシツネさまを見てしまう。
「きみはやってくれんのか? セットだと聞いとったがな」
「す、すみません」
おじいさんがにこにこしてる。ぼくはもう勃起してた。隣に座ってるヨシツネさまがすごくいやらしくて。吐息とか指の使い方とか。たまに指を入れるし。
「どれ、そっちの子は発射かな。これに入れるといい」
おじいさんはビニール袋をくれた。透明でつるつるしてるやつ。袋の内部に白い粘液が飛び散る。おじいさんはもっとにこにこする。
ヨシツネさまの喘ぎ声が耳元で。ぼくはまた勃起する。
「やれやれ、ツネ坊。新入りの子のことも考えてやっとくれ」
「ああすまへんね。老後じじい、俺にも寄越しぃ」
ヨシツネさまは、おじいさんから新しいビニール袋を取り上げる。射精するときのヨシツネさまの表情がすごかった。声もとろけるくらい甘い。
ぼくはもっと出したくなる。車の中も精液のにおいで満ちる。
おじいさんはにこにこしてるだけで何もしないけど、そのにこにこがすべてを物語ってる。おじいさんはぼくらを見るのが好きなのだ。ぼくはおじいさんの股間をちらちら見てたけどぜんぜん膨らんでない。
ヨシツネさまがビニール袋を突っ返すとおじいさんは、ぼくのビニール袋の中にヨシツネさまのを流し込む。量はぼくのほうが多い。口を縛って振った。シェイクみたいに泡が立つ。そして、空になったビニール袋に舌を這わせてちろちろ舐める。
すごくおいしそうだった。ぼくは気になってじっと見てしまう。
「なかなか素直でよいぞ。これは爺の愉しみでの」
古い洋館みたいだった。ステンドグラスとランプ。おじいさんの雰囲気にぴったり。メイドさんとか執事さんとか。
でもおじいさんの部屋に入っても特に誰とも会わなかった。こんなに大きい家にひとりで住んでるのかな。天蓋付の大きなベッド。レースのカーテン。
ヨシツネさまは勢いよくベッドに倒れこむ。
「さてさて、今夜はどうしようかの」
「うっわ、えろい発言やな。勃つもん勃たんくせに」
「命の恩人に向かってその口はないぞツネ坊。爺の咥えさすぞい」
「あーあーそんなん無意味の権化やわ。不能じいはそこで大人しうしとって」
おじいさんはにこにこしながら車椅子に座ってる。天蓋のベッドがよく見える位置に。
ヨシツネさまは機敏に体を起こしてぼくを隣に座らせる。吸い込まれそうなクッション。柔らかい。ベッドカヴァがかかったままだったけどその意味がやっとわかる。
ヨシツネさまがぼくのを扱く。ベルトも外されてジーンズが床に落ちる。下着も一緒に。自分でやるのよりずっときもちいい。
ぼくは意識が飛びそうになる。
「出すときはゆうてね。暴発はあかんえ」
いつの間にかコートもシャツもネクタイも取られてぼくだけ裸にされていた。乳首もいじられる。キスもされた。ヨシツネさまは何もかもがすごく上手で。
そういえば、ぼくはキスしたことあったっけ。わからない。はじめてだったらどうしよう。うれしいかもしれない。
舌が絡まる。唾液が流れ込んでくる。カニの味がした。
おじいさんの要望でぼくにバイブを入れる。おじいさんはそのスイッチを持っている。ぶるぶる。すごくきもちいい。急に強くなったり突然スイッチ切られたり。
ぼくは意識が途切れ途切れになる。
そのたびに、ヨシツネさまがぼくを呼び戻してくれる。まきちよ、と名前を呼んでくれる。優しい声で。
「なんやの、もの欲しそに。まだダメね。もうちょい耐え」
「でも」
「そないな顔しても通じへんよ。だいたいお前、ええもん嵌っとるやないの」ヨシツネさまは、ぼくのバイブをさらに奥に押し込む。
充分大きくて長いのに。そんなに奥に入れたら出せなくなっちゃうよ。
ぼくは悲鳴を上げる。バイブの動きが変わった。回転。ぼくは射精したくて堪らない。でもぼくの手はベッドに固定されているから自分で扱けない。
「あ、あのヨシツネさ、ま」
「さまやないゆうたやん。さん。言い換え」
「は、はい。ヨシツネさん、ぼくの、を」
バイブがさらに強く回転する。おじいさんはにこにこ。
ヨシツネさまは口の片端だけを上げて笑う。
「お願いします、あ、その」
「しゃあないなあ」
ヨシツネさまはぼくのを触ってくれた。ぼくは射精する。白い飛沫が飛び散って気を失いそうになる。異物感が消える。ヨシツネさまが一気に引き抜いた。
そして、さっきバイブを嵌めてくれたときみたいにとろとろの液体をじっとり馴染ませてから、一瞬でコンドームを嵌める。ぼくの腰を持ち上げてゆっくり挿入してくる。
ぼくは声を上げる。脚を完全に広げているから何もかも丸見えだ。ぎしぎしとベッドが揺れる。
「どないする? ナカ? ソト?」
ぼくはうなずく。
「どっちや?」
「な」
「カニ? アホか。だれがゴム取るか」
ヨシツネさまのが放たれる感覚。すごい。ヨシツネさまを相手にしたらその人は一気にぐったりだと思う。ぼくもぐったり。
きもちいい。こんなにきもちいいならぐったりしてもいいように思える。
ヨシツネさまがキスしてくれた。おじいさんが拍手する。ぼくは恥ずかしくなる。キスしてハッピーエンドの劇をしてたみたいだ。
「もうええ? 風呂貸して」
「ちょいと待ってくれんか。新入りの子、そのままこっちだ」
ぼくはふらふらしながら体を起こす。すごく熱い。手首は頑丈に拘束されてたはずなのに全然痛くなかった。
ヨシツネさまはコンドームを外しておじいさんに渡す。ビョーキは知らんえ、と吐き捨てて廊下に出てしまう。
おじいさんはコンドームを逆さにしてヨシツネさまの精液を愛おしそうに飲み干す。ぼくはすごくどきどきした。それが終わると、ぼくの身体についた精液をべろべろ舐める。
くすぐったい。
「これこれ、動くでない。こいつが爺の最大の愉しみじゃて」
「ごめんなさい」
全身舐められた。おじいさんはぼくに舌を這わせる。
ぼくは勃起する。
「どれ、直に飲ませてくれんかな」
脚の長い椅子があったのでぼくはそこに座る。おじいさんは車椅子のままぼくのをしゃぶれる。ぼくは腰を上げて自分でいじってしまう。ヨシツネさまの熱が残ってる。
でも、ぜんぜん出なかった。さっき出しすぎたせいだ。
おじいさんが哀しそうな顔をする。
「あ、その、ごめんなさい」
「しょうがないの。また頼むぞ」
お風呂はすごく広かった。大理石。壁も床もピカピカしてる。
ヨシツネさまはプールみたいな浴槽で泳いでた。
「出ぇへんかったのと違うん? 一滴も」
ぼくはうなずく。
「気にせんといて。俺がスゴいだけやから」
「きもちよかったです」
「当たり前やん。俺、これでカネとってるん」
おじいさんがお風呂をのぞきに来る。ヨシツネさまはおじいさんにお湯をかけようとする。ぼくは止めようとしたけど、単なる冗談だったらしい。
「のぞきは犯罪やて知らへんの? 追加ね」
「なあ、お前さん。本気で爺の老後に付き合うつもりはないかの」
「老後てなに? そんな気ィ揉まんでも目下老後やわ。諦め」
おじいさんはしゅんとして行ってしまった。
ヨシツネさまはみんなから好かれてる。ぼくは心からすごいと思う。檀那さまだって、セスイケさまだって褒めていた。
「いいんですか?」
「ええもなにも、毎度懲りもせず同じ手使うてナンパされる身にもなってみ? ええ加減マンネリやわ。せやった、もう平気なん? さっき」
料亭でカニを食べたときのことだ。あの時のことはよくおぼえてない。思い出せない。どうしてぼくはあの場所にいたんだろう。カニなんか食べてたんだろう。
ヨシツネさまはカニが好きなのかなあ。ハサミ。
「あ、はい。ごめんなさい。ぼうっとしてました」
ヨシツネさまは泳ぐのをやめてぼくの隣に座る。ぼくはどきどきする。
白い肌。色の薄い髪。
前髪は、湿気を帯びてちょっと長く見える。
「家族は?」
「いません」
「だれも? 親のどっちかとか、きょうだいとかおらへんの?」
「はい。ヨシツネさまは?」
ヨシツネさまは眼を細める。
ぼくはこの顔が怖い。すべてを見透かされてるみたいで。
「あ、ごめんなさい。ヨシツネさん、ですね」
「ええやん。知っとることは訊かんといて」
檀那さまが、お父さんだ。
だってそっくりだから。
「あの、お母さんは」
「さあなぁ」
「いなくなっちゃったんですか?」
「なんでそう思わはるの?」
なんだろう。
なんで自分でそんなこと言ったかわからない。
「奥さまは、檀那さまの妹さんなんですよね?」
「まぁた妹説やっとるんか、あの低反発は」ヨシツネさまが遠い眼をする。
ぼくはよくわからない。妹説?低反発?
「低反発はな、ゲボの」
「ええっ?」
「まだ大事なとこなぁんもゆうてへんよ。ええか? 秘密やさかいにな。しかもただの秘密やない。むっちゃ秘密や。これ知っとるの、キサとお前くらいのもんやからな」
「そうなんですか?」
「俺はイカサマし放題やけどウソは吐く」
ぼくは首をかしげる。
「ああ、ええの。要はインチキ大好きゆう話ね」
もっとよくわからない。結局奥さまはヨシツネさまの何なんだろう。
叔母さん?お母さん?
よく似てると思うけど。
「きょうだいはおるかもな。労働力んなるし。お前一人っ子なん?」
「はい」
「ふうん、なんで親おらんの?」
「離婚して」
「どっちついた?」
「お父さんです」
「んで、そのとーちゃんはどないなったん?」
「死にました」
「あ、そうなん。すまんかったね」
「平気です」
ヨシツネさまはぼくの身体を洗ってくれた。
そのお礼にどうしても、とお願いしたらぼくもヨシツネさまを洗わせてもらえた。すごく綺麗な身体だった。ぼくなんかが触らせてもらうのは勿体ない。ぽーっと見蕩れてしまう。手を止めたせいでヨシツネさまに何度も注意されてしまった。どんくさいと。
トイレに行ったときに廊下でおじいさんが待っててさっきの続きをやらせてくれんか、と言ってきた。ヨシツネさまは天蓋のベッドで眠ってる。今日はここに泊まらせてもらえる。
ぼくはうなずく。
おじいさんが案内してくれた部屋は本だらけだった。ちょっと黴くさい。おじいさんはぼくを立たせて服を脱がせる。するする。
ぼくのは勃起している。なんとか復活したみたい。望みどおり、ぼくはおじいさんの口の中に射精した。
おじいさんはありがとう、と言った。
「名前はなんと言ったかな」
「まきちよです」
「そうかの、まきちよ。爺の淋しい老後に付き合うてもらえないだろうか」
「ごめんなさい、ぼく、その」
ダメなのだ。ぼくは檀那さまの意に反することは出来ない。
おじいさんは哀しそうな顔でわかっとったよ、と言った。ぼくはもう一度謝る。おじいさんはひとりで淋しいのだ。ひとりだったらぼくだって淋しい。
「ツネ坊にも何遍も何遍もゆうたがな、借りるしかできん。まきちよも同じじゃて。眠いところ悪かったの、ぐっすり寝るといい」
「おじいさんはどこで寝るんですか?」
「爺は棺桶だと思うとるのか? 気を遣わんでくれ。情けのうなるわ」
ぼくはおやすみなさい、と言って部屋に戻る。
てっきりこの部屋がおじいさんのお部屋だと思ってたけど違うみたいだ。天蓋のベッドがおじいさんのじゃないのなら、ヨシツネさまのものなのかな。
ヨシツネさまに聞きたかったけど、ヨシツネさまはすやすや眠ってるし、ぼくもすごく眠いし。
夢でお父さんに会えた。
ぼくは泣く資格なんかない。
3
朝食をもらってからお屋敷に戻ることになった。フレンチトーストとミルクティ。カリカリに焼いたベーコンと果物みたいに甘いトマトのサラダ。
おじいさんが送ってくれるって言ったけどヨシツネさまが断っていた。送迎代ってのを気にしてるのかもしれない。
「また来とくれよツネ坊。まきちよも」
おじいさんは門のところまで見送りに出てくれた。ぼくは手を振る。ヨシツネさまは振り返りもしなかった。
ポーチから雪のお庭が見渡せる。昨日は夜だったから気づかなかった。
それにしてもすごく寒い。
息が真っ白。手が凍りそう。
まだ誰も踏んづけていない雪の上をずんずん歩く。
両側に大きな木。樹も真っ白。地面も真っ白。
空は青い。
ヨシツネさまはケータイの電源を切る。ぼくにも切れと言った。
いいのかな。
檀那さまの連絡とか、キサガタさんのメールとか。
「返事、聞こか」
ぼくは足を止めてしまう。
ヨシツネさまは足を止めない。
「二十分。駅に着くまでね。それ以上は待てへんえ」
観覧車。昨日は十五分だった。
今日は二十分。五分も増やしてもらえた。
でも、それで正真正銘の最後。
ぼくは足を動かす。
「どこに行くんですか?」
「さあなあどこやろ。お前行くんやったら一緒に考えよか」
ぼくは黙る。
雪が深くなってるところに落ちそうになる。
樹の雪が落ちる。
どこだろう。どこならいいんだろう。
「ぼくなんか連れてったら足手まといです」
「せやなあお前どんくさいしな。やめよか」
ぼくは黙る。
雪が落ちる。
「俺寒いの苦手なん。あったかいとこがええな」
「ハワイ」
「なんで?」
「なんとなくです」ぼくはコートのポケットに手を入れる。
サメのぬいぐるみ。
邪魔になる。ようやく意味がわかる。でもぜんぜん邪魔じゃない。
ぼくはすごくうれしかった。
ヨシツネさまにもらったものだから。
「どうしてぼくなんか誘ってくれるんですか?」
「これ聞いたら共犯決定やけど」
「え」
「お前がホンマに訊きたいんは、なんでキサを誘わんのか、ゆうことなのと違う? 誘わへんよ、足手纏いやさかいに。あいつおらはったら俺逃げられへんもん」
「どうゆう意味ですか? キサガタさんは邪魔なんかじゃ」
「邪魔やね、むっちゃ邪魔。俺は死にたいんやない、勘違いせんといて。俺は生きるために逃げる。せやから死んどるやつは」
「キサガタさんは死んでません。キサガタさんは」
深紅のマフラ。ぼくはつかんでいた。ヨシツネさまの首に巻いてある。
ヨシツネさまはゆっくり振り向く。
「放してくれへんかな」
「キサガタさんを見捨てるんですね?」
「せやね。いらんわ、あいつ」
ぼくは手を放す。力が抜けた。
キサガタさんはキサガタさんは。
ぼくは。
ヨシツネさまは足を進める。
「置いてくえ」
「キサガタさんのこと嫌いなんですか? キサガタさんは好きでああなったわけじゃ」
「好きでああなった、としたら?」
「だからって、そんな、見捨てる理由は」
「せやからね、俺は死んどるやつに手ェ差し伸べられるほど余裕あらへんの。もう自己犠牲のレベルぶち超えとるん。わかっとるはずや、キサはな、好きでゲボのとこにおるん。笑っとったやろ? めっちゃええ顔で。あんな顔しとってるやつ、どない卑怯な手遣うて連れてくゆうん。無理やわ。俺はそないなこと」
笑ってた。キサガタさんはうれしそうだった。幸せそうだった。
あんなに、
あんなにひどいことをされたのに、おかしいよね、て笑う。
檀那さまの下でロボット。凍りそうな池に飛び込んで。寒い小屋。たったひとり。傷だらけ。身体だってまともに動かない。
雪だるま。笑顔。
キサガタさんをお屋敷から連れ出すってことはあの笑顔を奪うこと?
そうゆうことなの?
「キサんとこ行きたいならええよ。俺は止めへん。キサと一緒に笑えるんはお前しかおらんしな。俺はなぁんも」
キサガタさん。ヨシツネさま。檀那さま。奥さま。せすいけさま。ツツボさん。カナバさん、先輩。おじさん二人。おじいさん。
だれがだれの味方でだれがだれの敵? わからない。
わからないよ教えてよお父さん。
ハサミは持ってない。
「キサガタさんは、ぼくらみたいなことしてたんですか」
「まあせやろね。ただ、お得意さんはずいぶん危ないシコーやったみたい」
「その人って亡くなったんですよね」
檀那さまはその男を葬られた。キサガタさんはそう言ってたけど本当に本当なんだろうか。本当にその男は死んでるのだろうか。ぼくは信じられない。
許せない。だれ。だれなの?
だれがキサガタさんをあんな目に遭わせて。くやしいくやしい。
「なに? 復讐しよ思うた?」
ぼくは首を振る。違うっていう意味じゃなくて、その考えを頭から追い出したかった。
ヨシツネさまは息を吐く。白い息。
「残念やったね。そいつ死んどるよ」
「知ってるんですか?」
「誤解承知でゆうんやけど、俺のいっちゃん最初の客やった」
「後ですよね? ヨシツネさまが向かわれたときにはもう」
「先」
視界が曇る。
白ばっか見てて眼がおかしくなる。
「あいつ品定めしよってん。とっかえひっかえ何遍も。で、何番目かのキサ気に入って」
壊した。選ばれた。ヨシツネさまじゃなくてキサガタさんを。ヨシツネさまを返してキサガタさんを取った。
「だれも気づかなかったんですか。キサガタさんが、その」
「そんなんいちいち店長が気づく思う? スタンバイ棚に並んどるもんやない、レンタル中の状態やぞ? 店員かて不可能やのに、貸し出し中の俺責めてもお門違いやと思わへん? 無理な話やわ」
わかってる。ヨシツネさまは悪くない。檀那さまだって悪いわけない。
悪いのはその男だ。キサガタさんをレンタルしてた男。
キサガタさんは逃げられなかったのだ。ぼくにはわかる。ぼくだって逃げようだなんて思わない。ヨシツネさまに声をかけてもらわなければ、命が尽きるまで檀那さまのお役に立ちたいと思っていた。キサガタさんもそう思ってる。
「どんな人でしたか、その」
ヨシツネさまはこめかみをつつく。
こんこん。
「完全にここイッとった。ああゆうのに限って外見はまともなん。カネも地位もある。家族はおらんかった思うけど、あいつ家族なん欲しないさかいに」
ぼくは自分のつけた足跡を見る。
ヨシツネさまの足跡も。
「骨みたいな奴やった。がりがりゆう意味やないよ、ホネなんホネ。ひんやり死んどる。性欲やの攻撃欲やの、そないなもんあいつにはあらへん。なに求めとるんかようわからんの、眼ェもなに見とるんか。せやけどびんびんに勃起するん。俺のデコから下に股間までの中心線指でなぞっただけでテント張るんえ。いっちゃん最初にそないな男の相手させられた俺の身ィにもなってな。知識も常識も一気に爆発しおったわ。ぼん、てな。なあホンマにこの話聞きたい? げーげー吐くえ?」
ぼくはうなずく。
ぼくはキサガタさんのことが知りたい。
「そか、根性あるな。えっとなんやったっけ。せやった、ホネね」
ヨシツネさまはマフラを巻きなおす。ふよふよ垂れてた分をぐるぐる首に。すごく寒そうだ。鼻の頭が真っ赤。
ぼくはコートを貸すべきだろうか。キサガタさんのように。でもヨシツネさまはそんなことすっかりお見通しで要らんえ、と吐き捨てる。
「とにかく不可解やわ。ホネは勃起しとるんよぎんぎんに。せやけど顔変わらへんの声も出さへんしうんともすんともかんとも。大人し待っとってもなんもない黙りこくって。そのうちな、服も脱がんと俺にナイフ渡すん。どないしよ思うとったら冷蔵庫にソーセージあるから持ってきてここで切れ、ゆうん。ここってどこなんて訊いたら床指す。床やぞ床地べた。俺もう怖なってナイフ捨てて逃げたわ。そしたらホネが追ってきてな、のっぺり無表情で。俺むっちゃ走ったんやけどまあ敵わんな。んで、掘られた。おわり」
ぼくは混乱する。
特にげーげーしなかった。ヨシツネさまはげー気持ちわるぅと言いながら眼を細める。
「ソーセージはどうなったんですか?」
「そらもう切らされたよすととんて。抜いてからやけど」
ぼくはもっと混乱する。
「せやからね、掘られとるときがげーげー気持ち悪いん。これはなあ、実際にやらんことにはわからんなあ。気持ちええからやるんがフツーやん? あとは征服欲やの独占欲やの支配欲やの。それもあらへん。なんやろ、やらなあかんからやっとる、が近いかな。でもなんや違う。うーん」
「何回くらいその、相手を」
「五回やな。あるときぱったり終わりゆうてね。で、そのあと派遣されたんがキサ。キサは俺と違うて戻ってこんかった。帰ってきたらあんなんなっとって」
「檀那さまが迎えに行ったんでしょうか」
「さあなあ、低反発やもな。あいつ面倒ごと愛好症やしね。なんやどんぱちせなあかんイベントくんくん嗅ぎつけてちゃか提げてるんるん出動するん。もしあのホネの死因が銃殺やったらせやね、ゲボやないな」
「じゃあもし檀那さまだったら」
「失踪。もちろん書類もな。どんなん調べてもなあんも出ェへん」
ツツボさん。中国に行ったってのは失踪したってこと?
じゃあ死んでないの?
死んだって思ってたのに。失踪って。
「駅着くえ」ヨシツネさまは足を止める。
ぼくも徐々に止まる。
小さくて淋しい駅。雪が降ればいいのに。雪が降れば電車が運行をやめてくれるかもしれない。電車が止まればぼくは何も言わずに。
「戻り」
ヨシツネさまはぼくに切符を渡してくれた。
「中途半端やったら迷惑やわ。俺本気やさかいに。キサによろしゅうな」
雪は降ってない。電車も止まってないけど、ぼくは何も言わずに済んだ。
ヨシツネさまはぼくと反対方向の電車に乗る。向こうのホームにいる。ヨシツネさまの電車のほうが先に来た。
ぼくは心の中でごめんなさいと言う。ぼくなんかに気を遣ってもらってごめんなさい。電車が行ってしまう。
ぼくはホームに座り込んでしまった。泣きそうだった。ぼくはひとりになった。ひとり。ひとりっきりでお屋敷に帰れるだろうか。わからない。どこをどうやって電車に乗ればお屋敷に帰れるのか、ヨシツネさまに訊くのを忘れていた。ぼくはどんくさいから。
電車はなかなか来なかった。ホームにはだれもいない。
すっごく寒い。涙も凍りそうなくらい。
ぼくは切符を確認する。
「なんぼんなっとる? ゆうてみい」
ぼくは顔を上げる。切符を落としてしまう。
薄っすら赤のかかった紫の着物に、濃い抹茶色の羽織。
檀那さまはわざわざ拾ってくださる。
「ほお、いっちゃん安いルートやんか。ホンマ俺に似てケチやなあ、ツネは」
ぼくは声が出ない。
檀那さまが切符を放ると、大きな男の人がそれを受け取って駅の窓口に駆けていった。払い戻しをするのだろう。
俺の血ぃはケチのちぃ、と檀那さまが節をつけて呟くのを聞きながら、駅の真ん前に横付けされてた黒い車に乗り込む。
檀那さまの隣。肩に手。檀那さまの大きな手。
「なあんも心配せんでええよ。まきちよは俺んとこ戻って来よ思うたんやさかいにな。あかんのはツネだけや」
ぼくはうなずく。
やっぱり檀那さまからは逃げられない。
お屋敷に着いてもぼくは口を利けなかった。檀那さまはゆっくり休みぃ、といってくれたけどどういう意味なのかわからない。お暇とかクビとかいう意味じゃ。
イヤだ。ぼくは逃げてない。
でもヨシツネさまの逃亡を止めなかったぼくにも責任が。ダメだダメだ。ぼくも悪い。ぼくはまた檀那さまに背いてしまった。キサガタさん。
そうだ、キサガタさん。ぼくはお庭に出てきょろきょろする。ぼくとキサガタさんでつくった雪だるまは溶けている。
殿ものぞいてみる。檀那さまはぼくを門のところで降ろしてからまたどこかに出掛けられたからいまはいない。屋敷中を大きな男の人がうろうろしてるけど、あの人たちは単なる警備だから基本的に素通り。
調理場にも庵にもいないなら。ぼくは庵の裏側に回る。小屋。
ここから先はこないで。
ううん、ぼくは行くよ。キサガタさんに会いに。
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