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第5章 春綿ハルワタ Filling Bed Spring
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ぼくはすごく混乱してる。
ぜんぶウソならいいけどたぶんホントのことだ。ぼくを騙したって何の得もないし、檀那さまやキサガタさんやヨシツネさまがウソをゆうとも思えない。
ぼんやりしてしまう。なんにもないのに転んでしまう。
雪だ。冷たい雪。真っ白な雪。
なんでぼくの時計をキサガタさんが持ってたんだろう。
どうしてこんなに赤黒く染まってるんだろう。この赤黒いものは何だろう。誰が汚したんだろう。ぼくのだいじな時計。お父さんに買ってもらっただいじな。文字盤が読めない。がりがり擦ってもぜんぜん落ちない。
爪が痛い。雪でも洗えない。
どうしよう、こんな。
「外は寒いよ? 中に入ろうよ、まきちよくん」キサガタさんの優しい声が降ってきた。
「どこにあったんですか」
「それは言えないんだ。ごめんね」
「ぼくの家に行ったんですね?」
行くわけない。キサガタさんは用もないのにお屋敷から出られない。じゃあ用があったとしたら。
ダメダメ。なんでキサガタさんを疑うの? そんなわけないよ。
キサガタさんは黙って首を振る。
檀那さまがお座敷で横になっている。お疲れなのだ。
ぼくらは縁側でお池を眺める。
お池はいつの間にか静かになってた。透き通るような金髪も見えない。
「きみに恥ずかしい思いをさせてごめんね。僕のしつけが悪いから」キサガタさんが言う。
ならしふさま。死んでしまったのだろうか。ぼくにはわからない。
頭が悪いからだ。ぼくの頭は本当に悪い。
なにもわからない。
時計がここにあっても、時刻が読み取れないなんて。
キサガタさんはちらりと檀那さまを気にする。だけど檀那さまはキサガタさんを見てない。ふわああと欠伸をして眼をこする。
ぼくと眼が合う。
「なんも考えんでええゆうたやろ。忘れよったんか?」
「時計のこともですか?」
「見つかったからええやん。血ぃは拭いたるわ」
キサガタさんがお辞儀する。ぼくの手から時計を持ってこうとする。
「貸して? すぐ返すよ?」
ぼくは時計を握り締める。
キサガタさんは困った顔をしてゆっくり座り直す。
冷たい手。
指に唇が触れる。柔らかい唇。
でもぼくは、ならしふさまのことが思い浮かんで。
「ねえ、まきちよくん?」キサガタさんが言う。
「だれの血なんですか?」
「俺の鼻血や。すまんな」檀那さまが言う。
「本当に?」
「なんや、俺がウソゆうとるんか?」
ぼくは何も言えなくなってしまう。檀那さまが体を起こしてぼくの肩を抱く。すごくすごくうれしかったけど、ぼくは時計を渡したくなかった。
ならしふさま。
「意固地やなあ。まきちよ、だいじな時計キレイにしとる間、俺と遊ぼか。な?」
ぼくは首を振る。
怒られるかと思ったけど、檀那さまは優しい顔でぼくを抱き締めてくれる。いいにおい。背中をさすってもらえた。
ぼくは結んでいた手を緩めてしまう。時計がキサガタさんの手に。ぼくの時計。お父さんから買ってもらったぼくの。
キサガタさんはお座敷から出て行った。
追いかけたかったけど、檀那さまはぼくを畳に押し倒す。顔をお池のほうに向けさせて、耳を舐めてくれる。
くすぐったい。
「なぁんも心配せんでええよ。俺がおるさかいにな」
「ぼくがお父さんを殺したとしてもですか」
「せやねえ。もし、万一お前が親父殺しとったとしても、俺はお前を守れるえ? お前の親父殺したんはお前やあらへん。まきちよ、お前の名前まきちよやもんな」
耳を舐めてるからじかに音が届く。ぼくはどきどきする。さっきまでならしふさまにあんなことされてたのに、また欲しくなってくる。
ぼくはおかしいんだ。ビョーキかもしれない。
外が暗くなってきた。夜なのかな。それともぼくが見えてる世界が変なの?
檀那さまはもう片方の耳も舐めてくれる。
お座敷の襖がするする開いて足が見える。キサガタさんの足だ。
「おお、キレイに落ちたやないか。ほら、まきちよ」
文字盤が見える。時刻もわかるけど、なんか変だ。
ぼくが変なだけなのだろうか。
きっとそう。ぼくはお礼を言って腕にはめる。
ぼくの時計。よかった。
キサガタさんが料理を運んできてくれた。お座敷でごはんを食べる。檀那さまと一緒に。
でもキサガタさんは部屋の隅に座ってるだけ。最初の日からそうだった。キサガタさんはぼくと一緒にごはんを食べない。一緒に食べよう、といっても首を振るだけ。
どうして? 決まりなのかな。
すごくすごく美味しかった。そういったらキサガタさんは笑ってくれた。食器を重ねて盆にのせてお座敷を出て行く。
「風呂、入ろか」
ぼくはどきどきする。檀那さまはぼくの腰に手を当てたまま外に出る。いつものお風呂かと思ったらそこじゃない。
檀那さまのお部屋のすぐ近く。お座敷の入り口からも見えた垣根。
その内側だった。
すごい。露天風呂だ。
「そないにオモロイかあ? 外に風呂があるだけやで?」
まごまごしてたら服を脱がせてもらえた。ちくちくする。毛を剃られちゃったからだ。ちょっと恥ずかしいけど、檀那さまがすごく優しくてぼくはすごくうれしい。
そういえば、ぼくが檀那さまの肌を見たのは初めてだった。
見てもいいのだろうか。ぼくなんかが。
檜風呂。いいにおい。
そこだけ屋根が別になってて空が見える。
「やっぱ冬にやるんはアホの部類やな。平気かお前」
「はい、あの、ありがとうございます。ぼくなんかをこんな素敵なお風呂に」
「そか、まきちよ喜ばせよ思うたさかいに。誘った甲斐はおうたかな」
ぼくを喜ばせるだなんて、そんな。なんて勿体ない。
ぼくはすごくすごくうれしい。
檀那さまはぼくをお膝にのせてくれた。
温かい。
お湯も温かいけどもっと温かい。
檀那さまの胸に耳をつける。檀那さまの鼓動が聞こえる。
ぼくはどきどきする。心臓が破裂しそう。
「お仕事は大丈夫ですか?」
「なんや、俺がいななる思うとるんか、可愛えな。安心しぃ。傍におるよ」
「でも、ぼくなんか」
「まきちよ。なんか、なんてゆわんといてな。哀しうなるやないか。お前は俺のだいじな子ぉやで? 俺のこと好きやないんか? 俺はお前のこと好きやさかいに」
檀那さまのお顔が近づく。檀那さまの唇がぼくの唇に。
え、ぼくいまなにしてるの?
「顔真っ赤やぞ。のぼせおったん?」
檀那さまはぼくの顔を見て微笑む。
ぼ、ぼくはもしかして、
檀那さまにキスされちゃったの? え、そんな。
ぼくは檀那さまのお顔をまともに見れない。すごくうれしいんだけどすごく恥ずかしい。耳にもキスしてもらえた。ちゅって聞こえる。わわわわわ。
「顔見せてぇな? 可愛え顔しとるんやから」
ぼくは泣きそうなくらいうれしい。ぼくは檀那さまに愛してもらってる。それがすごく伝わってくる。浴槽の脇で髪の毛も身体もぜんぶ洗ってもらえた。
お父さんみたいだ。
ぼくのお父さんも、本当に昔だけど、ぼくといっしょにお風呂に入ってくれた。小学校まではすごく優しかったのに。
中学に入ったときから、ぼくとお風呂に入ってくれなくなった。ぼくといっしょにごはんを食べてくれなくなった。ぼくといっしょのお布団で眠ってくれなくなった。おうちに帰ってきてくれなくなった。
すごくすごく淋しかったのに。電話も出てくれない。
お仕事が忙しいのはわかるけど、ぼくだってお父さんに会いたい。
お父さん、なんであんなに冷たくなったの? ぼくが勉強しなくなったから? テストでいい点取れなくなったから? せっかく買ってくれた時計をなくしちゃったから?
ぼくのこと嫌いになったの?
「おとうさん」
あ、どうしよう。間違えてお父さんてゆっちゃった。
檀那さまは怒っちゃったかもしれない。ごめんなさい。ぼくは謝る。
でも檀那さまはすごく優しい顔でぼくの頭を撫でてくれた。
「まきちよ、俺のこと、おとーサンて思うてええよ?」
「え、あの、でも」
檀那さまは僕のお兄さんだし。確かに年齢はそのくらい離れてると思うけど。
「忘れたんか? 俺がええゆうたらええの。ここはそうゆう決まりやさかいに」
いいのかな。だって檀那さまはヨシツネさまのお父さんなのに。ぼくが檀那さまのことをお父さんて思ったらヨシツネさまは。
「ツネのことか? あいつがそないな呼び方する思う? ゲボゲボゆうてへんかったかな。なんや哀しゅうて敵わんなあ」
「じゃ、じゃあぼくが檀那さまのこと、お父さんて呼びます」
「ほんならゆうてみてよ」
「え」
「まきちよ」
お父さんお父さんお父さんおとうさん。
「おとうさん」
またキスしてもらえた。長い長いキス。でもぼくがくしゃみしちゃって台無し。
檀那さまは笑ってたけど、ぼくはすごく悔しかった。
ごめんなさいお父さん。
ふわふわのタオルで体を拭いてもらえた。髪の毛も乾かしてもらえた。檀那さまと同じシャンプーで洗ったから檀那さまと同じにおい。
お父さんみたい。檀那さまはぼくのお父さんかもしれない。
着物も着せてもらえた。紺色の。あったかい羽織。
色は違うけど檀那さまとおそろい。
離れにはお布団が敷いてあった。ふたつも。きっとキサガタさんが敷いてくれたんだ。ぼくらがお風呂に入ってる間にこっそり。
ここで眠るのかな。檀那さまのお部屋かと思ってたからちょっとビックリした。でも檀那さまといっしょならどこでもいい。
ぼくはあの時のことを思い出す。セスイケさまとヨシツネさま。ここでぼくはとんでもないことをしちゃったんだ。
ストーブがついてたから離れはすごくあったかい。お布団はひんやりだけどきもちい。羽毛がふんわり。
「なんや飲もか」
すぐにキサガタさんが来てくれた。ぼくの姿を見て似合ってるね、て囁いてくれた。ぼくはうれしくなる。ぼくはホットココア。檀那さまはお酒。
ココアはツツボさんを思い出す。これでタコ焼きもあったらカナバさんも思い出してしまう。手首の痕。ならしふさま。
ぼくは淋しくなって檀那さまに抱き付いてしまう。
「甘えんぼやなあ、まきちよ」
檀那さまはお酒のにおいがする。お父さんのにおい。お父さんはぼくが寝る頃にお酒を飲んでた。夜眠れなくて起きるとお父さんはソファで眠ってた。
お父さん起きて。そんなとこで寝てたら風邪引いちゃうよ。でもお父さんは起きない。ぼくはますます眼が冴えてしまう。
お父さんに毛布をかける。よいしょよいしょ。よし、これで。
「おとうさん」
「なんや、もうおねむか」
檀那さまはぼくをお布団に寝かせてくれる。添い寝してくれる。すごくきもちよくてそんな中ですやすや眠りたいけど、このまま眠ったら檀那さまはひとりでお酒を飲んでひとりで眠っちゃう。お父さんと同じだ。
いっしょに寝たい。いっしょのベッドで。いっしょのお布団で。昔みたいに。だからぼくはもう一度お父さんを起こす。
お父さん起きてよ。起きてったら。ううん。お父さんは寝返りを打つ。口からお酒のにおい。いっぱい飲んだみたいだ。揺すってみる。お父さん、ねえ。お父さんが少しだけ眼を開けた気がする。お父さん、ここで寝ないで。お父さんはゆっくり手を伸ばしてぼくの顔を撫でる。大きな手。ぼくはその手に触る。
あったかい。お父さんのにおい。
「やや子みたいやなあ。子守唄欲しいんか?」
ぼくは首を振る。檀那さまの大きな手を握る。檀那さまも握り返してくれる。
お父さん。
お父さんはぼくの名前を呼んでくれる。
だけど寝ぼけてるみたいでぼくが返事してもずっと呼び続ける。お父さん、ぼくはここにいるよ。お父さんがぼくの手を引っ張る。ぼくはお父さんの上に倒れこんでしまう。毛布が落ちる。お父さんはぼくの名前を呼びながらぼくを抱き締めてくれる。ぼくは動けなくなる。ぼくはお父さんにキスされてる。お酒のにおいが流れ込んでくる。ぼくは息が出来なくなる。苦しいよ。お父さんの舌。お父さんの手がぼくの身体中を。
「ああ、そか。ちゅーで誤魔化したったらあかんね」
檀那さまはぼくの服を脱がして身体中にキスしてくれる。ぼくは声を上げる。頭が真っ白になる。お父さんなにしてるの?
くすぐったいよ。ぼくは裸にされる。いつの間にかぼくがお父さんの下に。お父さんはぼくの脚を開かせていじる。口の中に入れる。あめみたいに。お父さんはぼくのお尻も舐める。そんなところ汚いよ?あんまりキレイじゃないし。もしかしてぼくが汚いからキレイにしてくれてるのかもしれない。きっとそうだ。ぼくはもっとしっかりお風呂に入らないといけない。そうゆうことなんだ。お父さんはぼくのお尻に指を入れる。中までキレイにしないといけないのかな。なんか変な感じ。きもちい。ぼくが声を上げたらお父さんはもっともっと奥に指を入れようとする。指の数も増える。一本二本三本。ちょっと苦しくなってきた。お腹が苦しい。でもお父さんはやめない。さっきからぼくのお尻に硬いものが当たってる。なんだろう?
なあに?それ。
「ええか? 挿れるえ?」
ぼくはうなずく。檀那さまのがぼくに。
ぼくは声を上げる。檀那さまも気持ちよくなって欲しい。ぼくも腰を動かす。
お父さん。それはお父さんの?
ぼくのと全然違う。すごく大きいしすごく太いし。お父さんがぼくのお尻から指を抜く。ずるん。せっかくお腹が楽になったと思ったのに、痛い。痛いよ、お父さん。もしかしてその大きなのをぼくのお尻に入れてるの? ぼくのお尻がお父さんの足にぶつかる。熱いよお父さん。お尻が焼けそうだよ。痛くて血が出ちゃうよ。お父さんはぼくのをつかむ。はあはあ、と息を吐く。ぼくはお腹の中に何かが出たのを感じる。お尻が痛い。お父さんはぼくをひっくり返してもう一回。
「まきちよ?」
ずんずん入ってくる。お腹の奥にさっきの大きくて太いのが入ってる、なんで? お尻の穴に?汚いよ? お父さんはきもちよさそうな声を出す。きもちい?
きもちいの、お父さん?
「ぼくがお父さんを殺しました」
「俺が知らない思う?」
ぼくは首を振る。檀那さまに知ってもらいたかったからじゃない。
檀那さまはそれを知っててぼくをお屋敷に連れてきてくれたのだ。
ぼくは自分の口で言いたかった。誰にも言わなかったのは、誰かに言ったらぼくのお父さんがぼくのお父さんじゃなくなっちゃうような気がしたから。
だけど、いまのぼくのお父さんはここにいる。
檀那さまがぼくのお父さん。お父さんなんだ。
ぼくは檀那さまにしがみつく。
「ぼくは捕まるんでしょうか」
「捕まりたいんか?」
ぼくは首を振る。お父さんと離れたくない。
せっかくお父さんがそばにいるのに。
「なぁんも心配いらんで? 俺がおるさかいにな。お前の名前、まきちよやろ? まきちよのおとーサンは俺や。せやから、死んだおとーサンはまきちよのおとーサンやない。赤の他人やぞ?」
檀那さまはぼくの頭を撫でてくれる。きもちい。ぼくは眼を瞑る。
夢でお父さんが出てきた。
ぼくを嫌いになったほうのお父さん。
お風呂ベッドソファ廊下床お庭車の中公園デパート温泉ホテル仕事場おうちお外どこでもおでかけお父さんの大きなちんちん口いっぱいのせーえきお父さんのにおいお父さんの味お尻が熱い痛いいたい血お父さんのお友だち視線お酒たくさんのお友だちたくさんのちんちんたくさんのせーえき眼が覚めると必ずお尻からせーえきぼくはそれを舐める。おいしい。
最初は痛いだけだったけど、だんだんきもちよくなってきて、いやらしい声を出したりお父さんのゆうことをきいてえっちなことをすると、お父さんに褒めてもらえたから、ぼくは何でもした。ぼくは頭が悪いから具体的に何をしたのかぜんぜん思い出せないけど、初めて精液を出した時に、お父さんがすごく喜んでくれた。お父さんが笑ってくれたのをよく覚えてる。いい子だな、て頭を撫でてくれる。おとうさんがうれしいなら、ぼくもすごくうれしい。これでお父さんとおんなじ。おんなじになれた。
ある日、ぼくはお父さんの車に揺られて大きな洋館に行った。だけどお父さんは車から降りない。ぼくだけ降ろしてエンジンをかける。お父さん待って。どうしておいてくの? お父さんちょっとお仕事があってお出掛けするんだ。その間、このおじさんのゆうことを聞いていい子にしてるんだよ。終わったら迎えに来るからね。車が遠くなる。ぼくは泣きそうだったけど、そのおじさんがすごく美味しいものを食べさせてくれて、すごくすごく優しくしてくれた。我慢。だってお父さんはお仕事。がまんがまん。
かくれんぼをしよう、ということになって、ぼくはのクローゼットの中に隠れた。おじさんが鬼。おじさんがすぐ近くまで来てるのがわかってぼくは息を潜める。こんこん。ぼくはじっとする。いるのかな。ぼくは眼を瞑る。見いつけた。みつかっちゃった。おじさんはぼくを抱きかかえてクローゼットから出してくれたけど、なんだか様子が変。
どうしたの具合悪いの? いや、そうじゃないよ。もっと楽しいことしようか。うん。おじさんはぼくに抱き付いてきた。ぼくはおじさんが何をしたいのかすぐにわかった。お父さんと同じことをしたいんだ。
でもぼくはイヤだった。だって、お父さんじゃない人にされたことあるけど、そのときは必ずお父さんが見ててくれて、そばにいてくれた。でもいまはお父さんはここにいない。
ぼくは逃げた。イヤだ。
おじさんが追ってくる。ぼくは階段の下に隠れる。こんこん。出ておいで。何も怖くないよ。ぼくは首を振る。出てきてくれないかな。ぼくは耳を塞ぐ。おじさんの手がぼくの肩に。ぼくはポケットからハサミを出してそれを思いっきりおじさんの脚に。おじさんがうずくまる。逃げようと思ったけど、おじさんが悪い子だ、と言ったのが聞こえてぼくは足を止めてしまう。
そうだった。ぼくはお父さんにゆわれてたんだ。おじさんのゆうことをきいていい子にしてなきゃいけない。お父さんと約束した。ぼくはおじさんのところに戻る。ごめんなさい。ハサミなんか持ってたのか。ごめんなさい。こっちにくるんだ悪い子にはお仕置きだ。ぼくはおじさんにお尻を叩かれた。悪い子だ。悪い子は。ぼくは平気だった。これが終わればお父さんが迎えに来てくれる。ぼくはずっとずっと待ってた。だけどお父さんは迎えに来てくれなかった。ぼくは捨てられちゃったんだ。
さよならお父さん。
ぼくはハサミを持っておうちに帰る。
2
早く起きすぎちゃったみたいだ。檀那さまの寝顔はヨシツネさまにそっくり。
熱が残ってるけどほんの微か。檀那さまはぼくに中出ししてくれない。ヨシツネさまにはするのだろうか。するんだろうな。
やっぱり檀那さまはヨシツネさまのことが好きなんだ。ヨシツネさまは愛してもらってる。いいな。ぼくも檀那さまの子どもだったらよかったな。
ぼくは頭が悪いから、檀那さまを忘れちゃうよ。
お父さん。
ヨシツネさまはぼくのお父さんに会ったことがある。ほんとう? どうして黙ってたんだろう。
垣根を動かす。石段を下りる。つるつる凍った岩場を抜けて洞穴の入り口。
ぼくはヨシツネさまに会いたい。
謝らなきゃ。ヨシツネさまはぼくなんかのために折檻窟に。
ざざざ。暗くてよく見えない。ぬめぬめする壁を触りながら一番奥。
見覚えのある黒い学ラン。
寝転がってる。眠ってるのかな。
「あほぉ、前世ニワトリやないのお前」
起きてたみたい。起こしちゃったのかな。
ぼくは鉄の柵の前に座り込む。ヨシツネさまは背中を向けてる。
ぼくはごめんなさい、て頭を下げた。ヨシツネさまは何も言ってくれない。向こうを見たまま手でしっしって追い払う。
でもぼくはそこから動かない。
溜息。ヨシツネさまが頭を掻く。
「ケージもセージも俺の客ぎょーさんいてるえ。無駄むだ」
「ぼくのお父さんもお客さんだったんですか」
「カネ払いの悪い客でな、ゲボがぼやいとった。俺お品書きん中で最高最上コースやさかい。カネない権力ない地位ないの3ないは相手にでけへんの。まあ、どれか一個でも欠けとっても無理やけど」
「変なこときいていいですか」
「ええよ、お前変なことしかきかへんし」
「お父さんはぼくのこと、何か」
ヨシツネさまは首をごきごき鳴らす。肩を回して脚を伸ばす。背中を向けたまま。ぼくはそれを眺めてた。
寝転がり方がそっくり。
檀那さまとヨシツネさま。本当の親子。
「お前のとーちゃんがお前に会わななった理由、わかるか」
「ぼくが嫌いになったんです」
「半分せーかい。お前のとーちゃんはちっこいガキのほうが好きなん。ヘンタイのりょーいきやね。ガキ相手にしか勃たへんゆうびょーき。せやから大きなったお前は遣えへん。で、いらんもんは捨てた」
「それでぼくじゃなくてヨシツネさまと、その」
「実質俺とやったんは二回かそこら。俺元手高いさかいに、国家予算崩す、くらいの発言権ないとしんどいえ。息子がおる、ゆう話は聞いたな。写真も見たわ」
「それだけ、ですか」
「お前、時計なくしたゆうてぴーぴー泣いたのと違う? それ気にしとったよ。おんなじ時計探すゆうていろいろ手ぇ尽くして、やっと手に入れた思うた日ぃに殺されたやなんてなあ、浮かばれへんなあ」
「なんで、それ」
「一緒に買いにいかされたん。俺とデートするゆうのもカネかかるえ? レンタル料滞納利子もぎょーさん溜まっとったみたいやわ」
ぼくは腕の時計を見る。
確かにおんなじだけど、これはあの時の時計じゃない。僕が一目惚れして買ってもらった時計はもう存在しない。
どこでなくしたんだろう。それがわかれば探しにいけたのに。
なんでなくしちゃったんだろう。
お父さんは時計を捜すためだけにヨシツネさまを買ったんだろうか。ぼくは嫉妬してるのかな。
「さっきの、半分正解って」
「お前のこと好きで好きで狂いそなくらい好きで一緒におるとお前犯したなって仕方ないんやて。で、こらあかんて思うてお前と距離とった。こっちのが悲劇やなあ」
狂いそうなくらい好き?
ウソだよ。ぼくを犯したいなら犯してくれて構わないのに。ぼくもお父さんのことが好きだから、お父さんのためなら何でもしたのに。それに本当に好きだったらぼくを捨てたりしなかったはず。
ぼくはイヤじゃないよ。イヤがってないよ。
それなのに、お父さんはぼくを見ようとしなかった。ぼくのことが嫌いになったから。時計だけ置いてこうとするからいけないんだ。ぼくは時計なんかいらない。お父さんがくれたからだいじにしてただけで、お父さんがいれば他に何もいらない。おとうさん。
「あ、あの、ヨシツネさまはその、好きなひ、ととか」
「おると思う?」
「だってお客さん、たくさんいて」
「客は客やわ。カネヅル相手に惚れた腫れたもないな」
「でも、その」
「寝ただけで好きんなるんやったら向いてへんよ。とっとと辞め」
ヨシツネさまは冷たい。そんな言い方しなくても。ぼくは檀那さまのお役に立ちたいだけなのに。檀那さまに恩返しをしたい。
そのためだったらなんでもするけど、ぼくに出来ることはお客さんに気に入ってもらうこと。どんどんおカネを遣ってもらえるような子にならないと。
だけど優しくしてもらうとぼくはすごくうれしくて、つい好きになってしまう。誰でもよかったのだろうか。お父さんじゃないなら誰でも同じなんだろうか。洋館のおじさんだって先輩だってツツボさんだってカナバさんだってセスイケさまだってならしふさまだって奥さまだって檀那さまだってキサガタさんだって。
ヨシツネさま。
「早う帰りぃ? さすがの寝ぼすけゲボも起きるえ」
「ヨシツネさまは、ここから出られますよね?」
「さあなあ。ゲボの機嫌次第やね。俺がいろいろゆうたせいでお前がとーちゃん殺したこと言いたなったみたいやしな。すっきりしたか?」
すっきり? もやもや。
ぼくは忘れてたわけじゃない。言いたくなかっただけだ。ヨシツネさまはそれすら見抜いている。
ぼくは、お父さんをぼくだけのものにしておきたかったから黙ってた。
お父さんに買ってもらったハサミでお父さんを刺しちゃって、ぼんやりしてるうちに朝になって、学校いかなきゃ、て外に出たら黒い車が停まってた。お迎えだと思った。お父さんを殺した悪い子のぼくをケーサツに連れてってくれるんだ。
でも、着いたのは大きなお屋敷。
寄り道かと思ったけど、ぼくはひとりぽっちでおいてけぼり。
「お父さんは、ヨシツネさまじゃない人とも、その」
「せやねえ、わざわざ五つ星の俺やのうてもよう締まる穴さえあったらええのと違う? 生憎お品書きはちっこいガキのケツしかあらへんし」
「このこと、キサガタさんは」
「キサがゲボの奴隷ゆうこと忘れてへんか? 言い換えよか? はうすせくれたりぃ」
ヨシツネさまは最後までこっちを向いてくれなかった。手も振ってくれない。
ぼくはとぼとぼ引き返す。
さっきより空が明るい気がする。頭がぼーっとなる。
お父さん。本当にぼくのこと好きだったの? なんで教えてくれなかったの? それを知ってたらぼくはハサミなんか遣おうと思わなかった。
だいじなハサミを汚しちゃった。お父さんの血で。
ぼくもお父さんの血を被った。真っ黒い血。お父さんのにおい。本当は精液がよかった。でもハサミを遣ったあとじゃダメだった。出ないでない。
垣根のところにキサガタさんが立ってる。キサガタさん?
キサガタさんだろうか。わからない。
ぼくはキサガタさん?て尋ねる。
「幻滅したよね。ごめんね、謝るの遅くなって。あんなに長く檀那さまがご滞在なさるなんて、すごく珍しいんだよ?」
ぼくは何のことかわからない。キサガタさんはすごく哀しそうな顔をしてる。
キサガタさんなの?
優しいキサガタさん。キサガタさんはもっと。
「僕はきみのこと知ってたんだ。ぜんぶ。時計はね、きみを迎えに行った車があったでしょ? その中に忘れてったよ。どうして置いてったんだろうね。だいじな時計なんだよね」
はうすせくれたりぃ。ぼくはその意味がわからない。
はうすはおうち。せくれたりぃはなあに? 英語? ぼくは英語が苦手だから。
英語だけじゃない。
ぼくには取り柄がなにもない。頭も悪いし背も低いし。
「いいな。あのお風呂もね、滅多に遣わないんだよ? 檀那さま以外の人はヨシツネさましか入ったことないし。僕はお掃除とお湯加減を見るくらい。どうして僕はロボットなんだろう。檀那さまと一緒にお風呂に入れないよ。感電死させちゃう」
キサガタさんはぼくの手を引いて石段を上らせる。勢いが強かったから、ぼくは倒れ込んでしまう。
地面。キサガタさんはぼくを受け止めて耳に舌を這わす。
檀那さまがやったみたいに。
キサガタさん? ほんとうにキサガタさんなの?
「せっかく檀那さまが一緒に寝てくださったのに、お布団抜け出してヨシツネさまに会いにいくなんて。それもこっそり。ずるいよ。きみばっかり、みんな」
ぼくはよくわからない。キサガタさん?
ねえ、て呼びかけてもキサガタさんはぼくの耳を舐めてる。着物の裾から手を入れてぼくのお尻をいじる。キサガタさんの指が挿ってくる。
キサガタさんの指? ほんとうに?
「まきちよくん、きみは選ばれたんじゃないんだよ? 売られたんだよ。お父さんの借金を返すために。きみのお父さんはね、ヨシツネさまとかいろんな子を檀那さまから借りてたのにちっともおカネ払わなくて、ううん、払えなかったんだ。おカネを用意できなくなったからその代わりにきみを売り飛ばそうと思ってたんだ。時計を探してきたのだってきみにゆうことを聞かせるため。きちんと気にかけてるよ忘れてないよ、てことを示すためにわざわざヨシツネさまに協力してもらってメーカに作らせたんだ。ヨシツネさまのお客さんの中でヨシツネさまのお願いを聞き届けない人なんかこの世にはいないからね。きみと会う約束をしたあの日の翌日に送迎係の人が迎えに行って、きみを連れてかせるつもりだったんだ。だけど、きみはお父さんを殺しちゃった。好きだったんでしょ? 殺さなくたってお父さんはきみのものだったのに、かあいしょやねえ」
キサガタさんの表情が変わる。でもぼくは驚かない。
知ってるよ。
ぼくだって知ってる。ぜんぶ。
「キサガタさん。名前、キサガタならしふ、ていうんですね?」
「檀那さまにいただいた名前だよ。キサが僕。ならしふも僕さん。幻滅してよ」
ぼくは首を振る。幻滅なんかしてない。
キサガタさんはぼくのを口に含む。後ろにも指が挿ってる。ぼくは射精しない。昨日出しすぎちゃったみたい。
キサガタさんはもっともっと強く吸う。きもちいけど、きもちいだけ。
怒ってるだろうな。
キサガタさんは笑ってくれると思うけど、ならしふさまは。
「ヨシツネさまに聞いてるんでしょ? ホネって。僕のちんこ、あの人に切られたんじゃないよ? 僕さんが切りましてん。オモシロれっしゃろ? ホネはん魂消てはりましょってって。そんで僕さん檀那はんとこ戻れましたんよ。ホネはんばいばいねんね」
「お父さんは、ほんとうにぼくのお父さんだったんですか?」
「檀那さまがきみのお父さんになったんでしょ? じゃあ違うよね。まきちよくんのお父さんは檀那さまだよ。まきちよくんじゃなければ、殺されたお父さんがお父さんだったかもしれないね」
「キサガタさんのお父さんは」
キサガタさんはぼくのから口を離す。風が当たってすーすーする。ぼくのはキサガタさんの唾液でてらてらだった。
ぜんぜん硬くならないからつまらなくなったのかもしれない。キサガタさんはぼくのをぎゅうって握る。
ちょっと痛い。そんなに引っ張らないで。
「僕さんの父ちゃんさんはおらへんのうよ。檀那はんが僕さんの父ちゃんさんならうれしおすのにねえ。嘘でもいいからそう言って欲しいよ。そうすれば僕はもうちょっと長くロボットだってことに耐えられるのに。限界なんだ。ねえ、まきちよくん」
いきなりキスされた。キサガタさんの舌がぼくの舌の裏をなぞる。
息ができない。苦しいけどキサガタさんはもっと苦しいはず。ヨシツネさまが言ってたことはこのことかもしれない。
いっしょに笑う。
ヨシツネさまにはできない。ぼくにはできる?
垣根。石段は傾斜。
キサガタさんが笑う。ぼくも笑う。ならしふさまは笑ってるかな。わからない。キサガタさんが笑ってるなら笑えてるかも。
ぼくはキサガタさんの頬に触れる。
冷たい肌。日の出前の日陰。体温が奪われる。そもそも体温がないのかな。最初に会ったときからキサガタさんの手は冷たかった。ロボット。
ロボットは冷却。おーばーひーと。
指と指の間に指を入れる。きつく結ぶ。
キサガタさんの小屋が見える。近い誓い。
「騙しててごめんね。僕はあそこで暮らしてるわけじゃないんだ。あれはね、きみみたいな新入りの優しい子の同情を買って抱いてもらうための場所。変でしゃりまへんか? お部屋さんだけぼろぼろさむさむやのにばすさんもといれさんもぴかぴかぬくぬくしとりゃすもんね。ろぼっとさんには必要ない施設やありまへんの。ただのおんぼろラブホだよ」
「じゃあキサガタさんは」
あんな暗くて淋しいところにいたんじゃないんだ。よかった。ぼくは泣きそうになる。
キサガタさんは泣かないで、と言ってくれる。でもそんなこと言われたらよけいに泣いてしまう。ひとりぽっちじゃなかったんだ。
キサガタさんはちゃんと、居場所が。
「調理場から衣裳部屋につながってるって話したよね。あの中に僕の収納容器があるんだ。細長い箱。その中に入って充電するの。こんせんとさんびびび。棺桶さんでしょ。蓋閉めますとね真っ暗けっけ」
キサガタさんが眼を瞑る。ぼくはキサガタさんを立たせて垣根に寄りかからせる。
積もってた雪がどさり。谷を降下。
ぺしゃ。潰れて。
キサガタさんは眼を瞑ったまま手探りでぼくのをつかむ。今度は優しく。ぼくは勃起する。キサガタさんが脚を開く。ぼくはその間に立ってキサガタさんを持ち上げる。ぼくらは真似事をする。
キサガタさんはズボンを下ろせない。漏らしてしまうことを気にしている。
呼び出し用のバイブが嵌っててそれを出せない。ならしふさまに取り替えてもらったからきっと動く。檀那さまの呼び出しがじかにそれに伝わる。ぶるんて震える。
檀那さまはまだ夢の中かな。
誰の夢を見てるんだろう。ヨシツネさまかな。
ぼくじゃないだろうな。
キサガタさんの吐息。ぼくはさらに勃起する。キサガタさんはぼくのを痛いくらいに締め付けてくる。根元から千切れちゃいそう。
あ、あ、あ。キサガタさんがびくんて震える。射精。
ぼくもたぶん、射精。
「お父さんを殺したときのこと教えてよ。どうやったの?」
ぼくは思い出す。おもいだすおもいだす。
がたんがたん地下鉄。ちかちか眩しいホーム。外は暗い。くらいくらい。ぴゅうぴゅう風が冷たい。ぼくはポケットに手を入れる。
歩く。あるくあるく。
おうちは暗い。玄関は開いてる。
ぼくはただいま、てゆってみる。小さい声で、誰にも聞こえないように。
ぼくは靴を脱ぐ。暗い廊下。暗いリビング。ソファに黒い頭。
ぼくはもう一回ただいま、てゆってみる。
振り返る。
眼が合う。ぼくは逸らす。見えない。
見えてない。ぼくにも向こうにも。
遅えな、と向こうがゆう。ぼくは何も言わずに立ち尽くす。
ちくたくちくたく。時計だけ動いてる。変なおうち。
「急で悪いな」息だけの声だった。
ぼくはうなずく。
「出れるか」
「お父さんは?」
眼が合う。ぼくは逸らす。
ソファの黒い頭が動く。
ぼくは床を見る。足が見える。頭を撫でられる。大きな手。
ぼくはその人にしがみつく。変なにおい。
「お前、まだガキなのにな」
ぼくは首を振る。その話はもう済んでる。なんどもなんども。
顔が見えなくてよかった。
ぼくの頭が悪くてよかった。眼の前の人の顔がちっとも思い出せない。その人はもう一度頭を撫でてくれる。
ぼくは何も言わない。言わなくてもわかる。
ぼくらは静かに外に出る。わざと後部座席に乗った。ウィンドウにぼくの顔が映る。
ぼくの顔。ガキ。まだガキ。
街の明かりから離れる。暗い道路。せまいせまい。
「知ってると思うしモノのついでだから言っとくが、俺ぁお前の本当の親父じゃねえ」
「お父さん」
「じゃねんだよ。残念だったな」
知ってるよ。ウソだって知ってる。向こうはそんなつまんないウソにぼくが騙されると思ってる。
だからぼくはうなずく。悪あがき。手も足もないのに。
「腹減ってるだろ。もうちょいだからな」
「別にへーきです。さっき、おかし食べたし」
「そうか。悪いな」
おかしを食べたのは本当。別にへーきなのも本当。ぼくはお腹なんか減ってない。そんなの今どうだっていい。
ぼくはお腹を抑える。かばんをのせる。
「お前、俺が担当じゃなきゃいまごろたらふく美味いもん食えてたかもしんねえな。俺みてえな下手っぴな付け焼刃のせこい手じゃなくてよ」
ぼくは耳を塞ぐ。そんなこと聞きたくない。そんなこと聞くために車に乗ったんじゃない。やめて。
「俺ぁどうもカネってのに好かれてねえみてえでなあ。どうすりゃいいんだろうな。誰か教えてくんねえかなあ。あ、教えるのもカネが要るのか。やっぱ世の中うまくいかねえも」
急に曲がった。ぼくはウィンドウに頭をぶつける。きいきいタイヤが鳴る。
舌打ちが聞こえる。
ぼくは眼を瞑る。
頭に温かい手。ぽんぽん。ぼくは眼を開ける。
眼が合う。
「ここで待っとけ」
「ダメ」
て言ったのに、お父さんがドアを開けるほうが早かった。
すごく眩しい。
ぼくは手を伸ばせない。届かない。ばん、てドアが閉まる。
ぼくも降りようとしたけど、すぐドアの向こうにお父さんがいてドアが開かない。
反対側のドアは変なひと。
「それで?」
「ヨシツネさまが言ってたんですが、ここに呼ばれる人は人を殺してるって」
「そうだよ」キサガタさんは仰け反った姿勢で空を見てる。
からだの半分くらいは垣根の向こう側。ぼくがちょっと体重をかければキサガタさんは落下する。雪と同じように潰れる。
だけどぼくがちょっと身を引けばキサガタさんは落下せずに済む。雪と同じように積もる。
どっちが正解なんだろう。わからない。
わからないよ。
「ぼくはお父さんを殺しました。キサガタさんは」
「僕さんはキサ殺しゃったんえ。ちんちんないない。僕は」
「ホネって人ですか?」
「それは檀那さまが葬ってくださったよ。僕はね、いっぱい」
背中が痛い。ぎいぎい。
キサガタさんの向こうに空がある。さっきまで谷があったのに。
ぼくは宙に浮いてる。
キサガタさんが笑ってる。ならしふさまも笑ってる。うれしいのかな。楽しいのかな。ぼくも笑う。
脚に垣根が引っ掛かってる。ぼくはさかさま。石段に手が届きそう。
まっさかさま。
お父さんもまっさかさま。車の中からずっと見てた。お父さんが殴られたり蹴られたり踏まれたり引っ張られたり引き摺られたりしてるところを。
こんこん。ウィンドウが叩かれてる。ぼくは鍵を開ける。車に誰か乗ってきて勝手に運転しておうちに戻る。お父さんが玄関に捨てられる。
服がぼろぼろ。黒くてどろどろしたものが身体中についてる。ぼくは額についてたのを指ですくう。舐める。お父さんの味。
ぼくはかばんからハサミを出してお父さんの服を切る。じょきじょき。黒ずんだ肌。ぼくは舌を這わす。お父さんのにおい。
う、とお父さんが声を漏らす。お父さんが指を差す。
玄関。きっと車だ。
運転席の下に箱があった。細長い箱。包装紙びりびり。
暗くてよく見えない。
形からだと時計?
時計。ぼくはお父さんに駆け寄る。お父さんはそれに触る。文字盤を見つめる。動いてるかどうか確認してる。壊れてないか確認してる。
そのせいで時計は真っ黒になっちゃった。拭いても洗ってもダメだった。
余計に黒くなる。
血。
「落ちないよ?」
お父さんは何も言わない。ぼくは背中を揺する。起きて起きて。あの時みたいだ。初めてぼくを犯したときの。また犯してくれればいいのに。
そう思って強く揺する。起きてお父さん。だけどぼくの手が黒くなるだけ。お父さんはピクリともしない。背中を舐めても指をしゃぶっても何も変わらない。
うつ伏せだからいけない。
ひっくり返す。お父さんの口から黒い筋。鼻と耳からも。眼は閉じてる。ぼくはハサミでお父さんのズボンを切る。じょきじょき。しゃぶる。ふにゃふにゃ。ぼくが下手なのかな。お父さんに教えられたようにできるだけいやらしく舐める。えっちな音を立てて。ぼくはハサミを手にとって。
らっか落下。さかさま。
頭が熱い。
だらだらと黒いもの。変な音。
遠くでキサガタさんの声がする。ならしふさまの声もする。笑い声。すごくすごく楽しそう。ぼくも交ぜてよ。仲間に入れてよ。
いいな。檀那さまの声も聞きたい。ぼくは耳を澄ます。
きーん。うるさい。きーん。
ハサミはどうしたっけ。お父さんに買ってもらったハサミ。時計はここにあるからあとはハサミが。はさみハサミ。切れない。ぼくはこれが欲しいのに。刃が黒く滲んでくる。なんでなんで。ぼくの頭が悪いから?
翌朝お迎えに来た人たちはぼくに跪いてこう言った。
お迎えに上がりました。
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