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第2話
敬人はそれをずっと後悔していた。その夜から豪雨に襲われ、ビニールハウスの補修をしようとした両親が土砂崩れに巻き込まれて他界したからだ。あの生意気な「ぬいぐるみなんて」が最後の言葉になってしまった。それからは後悔しないよう、自分の気持ちを素直に伝えようと決めて生きてきたのだった。
サミュエルがテディベアに対してその言葉を口にした瞬間、『そんなこと言っちゃだめだ』と誰かの声が聞こえた。頭の中でガラス瓶が割れたような音がして、一気に二十四年分の敬人の記憶がなだれ込んだ。
そして気づくのだ。生まれ変わった自分は、陰険で嫉妬深いせいで家族にも使用人にも距離を置かれた超嫌われ者だということに――。
父であるサウスモーランド公爵は子宝に恵まれなかった。遠戚から養子に迎えた赤ん坊がサミュエルだ。
だがサミュエルが四歳のとき、公爵夫人が男児を出産した。それが弟のセオドアだ。
それからすっかりサミュエルはひねくれた。嫡子が誕生した今、自分にはもう後を継ぐ役目も、そもそもこのサウスモーランド公爵ラムリー家の子どもとしても、お役御免なのだ。口を開けば嫌味と意地悪、セオドアには罵声といたずらを繰り返し、屋敷内でも完全に孤立した。
突然の前世の記憶に混乱しながらも、サミュエルは受け取ったテディベアを抱きしめて取り繕った。
「な……なーんてね! 嬉しいなあ、僕テディベアだーいすき!」
両親やセオドア、使用人たちが一斉に目を丸くする。嫌味と意地悪の語彙しかないサミュエルが、満面の笑みで喜んでいるのだから当然だ。
「どうした? サミュエル。気に入らなかったら無理しなくていいんだぞ」
父親が気を遣ってくれるが、サミュエルは首を振った。
「いろんな気持ちがぐるぐるして、素直に言えなかっただけなんです。本当は嬉しいんです。素直に喜べなくてごめんなさい……ちゃんとお礼が言えなくてごめんなさい……」
じわりと目が熱くなる。
敬人として両親に伝えたかったことを口にしたことで、救われたような気がしたのだ。
母親が感極まってサミュエルを抱きしめた。
「この小さな身体に、複雑な思いをたくさんさせてしまったものね……ごめんなさいね。でもサミュエルは大切なうちの子どもよ」
はらはらと涙が出た。意地悪が服を着て歩いていると揶揄されていたサミュエルだが、本当はこのように無条件に愛されたかったのだ。
「セオドアも……いっぱい意地悪してごめんね」
そう声をかけると、いじめられ続けた六歳のセオドアは父親の後ろに隠れ、何かの企みではないか、という顔をしてこちらを睨んでいた。
(サミュエル……セオドア……サウスモーランド公爵……?)
どれも聞いたことのある名称だった。自分がサミュエルだからではなく、敬人の記憶の中にあるのだ。
「ああっ! 『ウィズナー王国物語』だ!」
サミュエルがテディベアをぎゅうぎゅうに抱きしめて叫ぶ。
父親が「確かにここはウィズナー王国だが?」と不思議そうに首をかしげている。
サミュエルはその場を取り繕って、ハンカチで汗を拭いた。ちらりとセオドアを見ると、こちらを警戒した様子でじっと見つめていた。プラチナブロンドに明るいブルーの瞳、六歳にして選ばれた者特有の圧倒的なオーラ……。
(世界的に大ヒットして映画にもなったファンタジー小説『ウィズナー王国物語』の英雄セオドアじゃないか! そして僕、サミュエルはセオドアの義兄であり悪役令息……!)
血の気が引いた。なぜなら物語の中でサミュエルは、大人になったセオドアに殺されるからだ。
『ウィズナー王国物語』は、英国の女性作家が生み出した長編ファンタジー小説で、田舎町に生まれた主人公リオが〝聖なるオメガ〟に選ばれるところから物語が始まる。
この小説内では男女の他に、第二の性があり、アルファ、ベータ、オメガに分かれる。ベータは普通の男女と変わりはないが、アルファは知性体力に秀でた優秀遺伝子の塊のような性であり、一方のオメガは男でも子を孕む器官を体内に持つ。さらにアルファとオメガはフェロモンで惹かれ合い、オメガのフェロモンにあてられたアルファは理性を失い、本能のままオメガを求める。
その中でリオは田舎町の貧民街に生まれ、幼い頃から迫害を受け続けるが、あるとき伝説の〝聖なるオメガ〟だと神託を受ける。傷ついた人を癒やし、天候を操る不思議な能力を持っていた。
物語ではリオをめぐって、ウィズナー王国王太子エセルバートや英雄セオドア、隣国の皇帝などが争う。国家間の危機も聖なる力で乗り越えたリオは、戦場で背中を預け合ったセオドアと恋に落ちる。度重なる遠征でセオドアは命を落とすも、リオは心の中に棲むセオドアを愛し続け、国の平和を神殿で祈り続ける――という物語だ。
(そしてサミュエルは、王太子と愛のない結婚をして側室となり、立場を利用してリオを妬み殺そうとする悪役令息だ。目論見がばれて中盤で義弟のセオドアに斬り捨てられるっていう盛り上げ役……)
セオドアをも妬み続けていじめてきたサミュエルは、命乞いをしても許してはもらえなかった。サミュエルが絶命直前にセオドアからかけられた言葉は、たしかこうだった。
『お前を一度も、兄だと思ったことはない』
生まれ変わったのは、異国のどこかではなく、全く違う世界の、しかも前世で夢中になって読んでいたファンタジー小説の世界だった。
サミュエルは誕生日プレゼントの大きなテディベアを抱きしめて、今度は別の意味で泣いた。
(し……死にたくない!)
第二の性の診断は、婚約可能な十四歳になるまで法律で禁止されている。性別によって教育機会を奪わないためだ。サミュエルもセオドアもまだ不明だが、小説内の設定を知っている自分は、己がオメガであり、セオドアがアルファであることを知っているのだが。
(十四歳になったセオドアがアルファだと診断されて、またサミュエルがひねくれるんだよな……オメガだったことで結局王太子の側室っていう立場にはなったわけだけど)
読者のときはあまり共感できなかったが、いざ〝中の人〟になってみると、サミュエルの人格がゆがむのは、致し方ない側面もあると分かる。だが、新たな生をまっとうするために死ぬわけにはいかない。
サミュエルがセオドアに殺される原因を、脳内で整理してみる。
セオドアを長年いじめ続け。恨みを買っていたこと。
エセルバート王太子の側室になり、ある程度の権力を得たこと。
聖なるオメガであるリオを毒殺しようとしたこと。
大きく分けてこの三つである。
(この三つを回避すれば、僕は死なずに済むんじゃないだろうか)
サミュエルは誕生日パーティーを終え、自室に戻ると、侍女に寝間着に着替えさせられた。
「寝る前にお飲み物を、ご、ご用意しましょうか」
侍女のボタンを留める手が震えている。無理もない、これまでサミュエルは少しでも気に入らないと怒鳴ったり叩いたり、クビにしたりしていたのだから――。
サミュエルはそっと侍女の手を握った。
「怖がらないで。僕も十歳になったんだから大人になるよ! 今までごめんね」
侍女は驚いた顔でこちらを見返してくる。よく考えると彼女の名前すらサミュエルは覚えていなかった。どの使用人のことも「お前」と偉そうに呼んで事足りていたからだ。
「もう一度、お名前を教えてくれる?」
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