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第5話

 サミュエルはセオドアを、そっと抱きしめた。もう体格が変わらなくなってきているのが少し悔しいが、頼もしくもある。セオドアから春の日だまりのような香りがして、ふっと心が安らぐ。この香りをずっと嗅いでいたい気分になった。 (セオに殺されないために可愛がろう……なんて思ってたくせに、結局何も気にせずに接してしまったし、それでも懐いてくれたんだ。結果オーライだ)  前世の児玉敬人は一人っ子だった。幼少期はきょうだいのいる友人たちがうらやましくて「弟か妹がいたら、絶対に可愛がるのにな」なんて思っていたことを思い出す。  サミュエルだって兄弟は欲しかったはずだ。しかし、兄弟が手に入ったのと同時に、養子である自分が〝ラムリー家の子ども〟としての居場所を失うことを恐れたのだ。四歳でそれを理解してしまったサミュエルも、何も知らされずに疎まれ続けたセオドアも、哀れに思えて仕方がなかった。 「サミィ……俺が、ずっと守るからね……」  寝入り間際にそう漏らし、セオドアが規則正しい寝息を立て始めた。下まぶたには涙で濡れた金色のまつげがはりついている。サミュエルもその温もりに誘われて、まぶたが重くなってくるのだった。 「サミィ、サミィ、起きて」  甘い香りの中で、肩を揺らす大きな手。大好きな蜂蜜にも似たその香りが、サミュエルは大好きだった。 「うん……もうちょっと……いい香り……」  香りのするほうに鼻を擦りつけると、くすくすと笑い声が降ってきた。 「そうだね、覚えて。これが俺の香りだよ」  低い声が、不思議なことを言っている。どういう意味だと聞き返したいが、この香りを嗅いでいると、どうでもよくなってしまう。あと少し……もっと……そばに。 「まあ! セオドアさま、またサミュエルさまのベッドに潜り込んだのですか?」  起こしに来たサミュエルの侍女のドリーが、呆れた声を上げる。  仕方ないじゃないか、セオドアはまだ子どもで怖がりだから一緒にいてやらないと……と夢の中でドリーに弁明する。まぶたが重くてまだ目が開かない。 「いい加減、自覚なさってください! セオドアさまは十六歳のアルファ、サミュエルさまは二十歳のオメガなんですよ? そんなご兄弟が一緒に寝るご家庭なんて聞いたことありませんよッ」  十六歳?  サミュエルはぱちりと目を開けて、横にいる義弟を振り向く。 「おはよう、サミィ」  甘く低い声で朝の挨拶をしていたのは、たくましい上半身を惜しげもなく晒した、プラチナブロンドの美男子――そう、十六歳となり社交界デビューを目前に控えたセオドアだった。  なんだか色気もダダ漏れで、まるで恋人と致した翌朝のようだ。  先ほどまで小さなセオドアの夢を見ていたせいか、まるで一瞬で大きくなったかのように錯覚してしまう。  サミュエルは身体を起こし、頭を抱えた。 「セオ……お前、また勝手に僕のベッドに」 「昨夜、雷の音がすごかったんだ」  洗顔用の水桶を運んできたドリーが「満天の星空だったのに雷が鳴るなんて」と皮肉たっぷりに漏らす。  セオドアはムッとして、ドリーを指さし「あいつクビにすれば」と言い出した。ドリーはドリーで、そのときはサミュエルと一緒に出ていく、などと勝手なことを言っている。  ひとまず自室に戻って身支度せよとドリーに急かされ、セオドアはベッドから起き上がる。その背中に、サミュエルはなぜかドキリとした。  抱きしめたら腕の中にすっぽりと収まっていた可愛いセオドアが、いつの間にか自分よりも背中が広くなっていて、筋肉の陰影がくっきりと分かるほどたくましくなっているのだから――。  セオドアは十四歳で受けた第二の性の検査で、アルファと診断された。嫡子でありアルファだと判明したセオドアは、サウスモーランド公爵の跡取りとして、確固たる地位を得た。 『ウィズナー王国物語』の中では、そのことでさらに立場が悪くなったサミュエルが嫉妬をこじらせ、権力を手に入れようとエセルバート王太子との政略結婚を目論むのだが……。  児玉敬人の記憶を持った今のサミュエルは、心から喜んだ。自身も跡取りのスペアとして教育を受けてきたが、これでもう解放されるだろうという思惑もあった。おかげで農業の研究や灌漑工事の計画に、これまで以上に取り組めるのだ。 「朝食も一緒にとるから」  まるで決定事項のように告げたセオドアは、サミュエルの私室から出ていった。数日に一度はこの光景を見ている気がする。 「さすがに異常だよな、ドリー」  ドリーは主人の問いかけにぶんぶんと首を縦に振る。 「セオのやつ、十六にもなって雷が怖いなんて……将来大丈夫なのか? もっとしっかりしてもらわないと」  これから英雄になるであろう人物なのに、自分が甘やかしすぎたせいで軟弱者に育ってしまったのだろうか。いや、そのほうがセオドアを戦場に送らずに済むので好都合か――。  サミュエルがぶつぶつと漏らしていると、ドリーが「そういう解釈ですか」と呆れた声で肩を落としたのだった。 「しかももうすぐ社交界デビューだろ? 恥かいたらどうするんだ」  すると、ドリーが人差し指を立てた。 「それはサミュエルさまも同じですよ!」  その通り、実はサミュエルもまだ社交界デビューを果たしていないのだ。  十六歳を超えたら社交界にデビューするのが貴族の習わしだが、サミュエルは畑作りや農作物品種改良に夢中となり、さらに自身の悪評は残ったままなので「セオと一緒にデビューする」と逃げ続けていたのだ。  おかげで、性格が悪いために社交界にも出ず土いじりしている変人、という噂が広まってしまった。性格が悪いかどうかは主観の問題だが、土いじりは事実なので否定することもできない。 「お願いですから、この際セオドアさまと一緒でいいですから、ぜひ社交界にデビューしてくださいませ! ドリーは毎年、着られなかったサミュエルさまのパーティー用の正装を泣く泣く手放しているのですよ……!」 「保管しておけばいいじゃないか、僕もう成長止まってるし」  公爵家の令息がそんなことできるか、とドリーが唾を飛ばして怒っている。  そう、もう背も伸びなくなったし、オメガなので農業で多少は健康的になったが、筋肉はあまりつかないのだ。 (それなのに、まだアレが来ないんだよな……)  オメガは思春期の終わりから成人する頃までに初めての発情期が訪れる。しかし、サミュエルはいまだ発情したことがないのだ。だからこそ、アルファのセオドアがベッドに潜り込んでも涼しい顔をしているのだが……。  オメガのフェロモンは近親者には効かないが、養子である自分はセオドアと血縁関係が全くないので、自分が発情してしまったら危険だ。  第一王子から王太子となったエセルバートとも、まだ〝遊び相手〟の関係が続いていた。もう遊ぶというほどの幼さではないのだが、サミュエルがオメガとして初の発情を迎えるまでは――という条件で通うことになっているのだ。 「今日は王太子殿下がいらっしゃる日ですよ。デビュタントの衣装のことでお話があるとおっしゃってたので私もとても楽しみです!」 「衣装かぁ、もうなんでもいいよ。セオと一緒なら、僕は引き立て役に徹するだけだし」  そう漏らすと、サミュエルを着替えさせていたドリーがカッと目を見開いた。余計なことを言うな、というヤクザの目つきだ。 「何をおっしゃいますか。サミュエルさまもおきれいな方だと評判なんですよ、中身がアレと言われているだけで!」  サミュエルは「中身がアレ」とオウム返しする。 「噂しているのはもちろん貴族だけです。農家出身であるドリーには、サミュエルさまのすごさが分かりますし、平民はみんなサミュエルさまを尊敬しています」  ドリーはぐっと拳を握った。  サミュエルは前世の知識も生かして、農業の効率化や災害対策などを研究、領地に広めていった。もちろん領地以外にも伝搬され役立っている。  さらに十六歳頃からは、灌漑工事にも乗り出した。  雨量で収穫量が左右されないためにも、河川の水を農地に引くことが重要だと考えたのだ。しかしパワーショベルなどの重機がない時代に、どうやって建設したらいいか途方にくれていた。  そこで思い出したのが、江戸時代の水路の作り方だった。重機のない時代に作られた堰や水路が今も現役で活躍しているのだから、この世界でも条件によってはできるのではないか……と思ったのだ。

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