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第23話
「颯さん、呼びました?」
「エッ!」
窓の外からガサガサと草の揺れる音がして、諒大が突然目の前に現れた。
一階の颯のアパートの前は、防犯にもならない積まれたブロックの上に低い柵があるだけだ。でも、まさかこんなところに人が現れるとは思いもしなくて、颯は驚きのけぞった。
諒大の長い足は、軽々とブロックを足場にして低い柵を越える。
颯の目の前にやってきた諒大は「驚かせてごめんなさい」と颯に笑顔を向けてきた。
「でも驚いたのは俺も同じです。帰ろうと思ったけど、後ろ髪引かれる思いでちょっとだけ外から颯さんの部屋を眺めて帰ろうと思ったら、名前を呼んでもらえたんですから。しかも、『諒大さん、行っちゃやだ』って……」
「わーっ!」
颯は慌てて騒いで諒大の言葉を遮る。
さっきのひとり言を諒大に聞かれてた。あれは諒大には知られてはいけない気持ちなのに。
「俺が颯さんの前からいなくなったら、颯さんは泣いてくれるんですか……?」
諒大はスーツのポケットからハンカチを取り出して、そっと颯の涙を拭う。
「俺が颯さんから離れるとでも? そんなことありえません。死ぬまで颯さんのそばを離れませんから」
真っ直ぐに見つめてくる諒大の視線。諒大は窓の枠に手をかけて、ゆっくりと颯に顔を寄せてくる。
「颯さん……」
諒大との距離がどんどん近づいていく。早く逃げないと、諒大の唇が触れてしまう。
(キス、される……!)
どうしよう。どうしよう。
このままキスしたいキスしたい、したくないしたくない……!
「泥棒ーっ!!」
突然の誰かの怒鳴り声。飛び上がるほど慌てたのは颯だけじゃない、諒大もだ。
近所の人と思われるオッサンに小石を投げつけられた諒大は、もう一度アパートの柵を飛び越え、ものすごい逃げ足で颯の目の前からいなくなった。
「大丈夫ですかっ? 『わーっ!』って悲鳴をあげてましたよね? 何か取られましたっ?」
泥棒と叫んだ近所の中年太りのオッサンは、なんという正義感だ。
颯の騒ぎ声を聞いて、様子を見たら黒スーツの男がアパートの柵を越えて中にいたのを見て、石を投げつけ、颯を助けようとしてくれたのだ。
「な、何も取られてません……」
「クソッ! なんて逃げ足の速い泥棒なんだ! でも未遂でよかったな! この辺りは最近変な男がウロウロしてるって噂なんだ。君も気をつけなさい」
「あ、はい……すみません……」
颯はペコペコ頭を下げる。正義感の塊のオッサンは、辺りをキョロキョロしながら立ち去って行った。
(諒大さん、僕のそばを離れないって言ったあと、すぐにいなくなっちゃった……)
あんなかっこつけていたくせに、泥棒に間違われて、すっ飛んで逃げて行った諒大のことを思い出す。
(御曹司さまが、こんな安アパートに侵入した泥棒に間違われたらたまらないもんね)
さっきの諒大の慌てっぷりが可笑しくてニマニマしてしまう。諒大のあんな不格好な姿なんて誰も見たことがないんじゃないだろうか。
ほどなくして、諒大から電話がかかってきた。颯は窓を閉めて、着信に応じる。
『さっきのオヤジがまだ俺をウロウロ探してるから、車で逃げてきました。まったく……俺は泥棒じゃない!』
「あはは、そうですよね。お金持ちで、なんでも持ってますものね」
子どもみたいに拗ねて、ぶつぶつ文句を言う諒大がおかしくて笑う。
「諒大さんほどの人なら、逃げることないのに。身なりでわかりますし、僕だって『この人は知り合いです』って説明しますよ」
諒大は泥棒じゃないのだから、あそこで逃げずに堂々としていればよかったのに。急に怒鳴られて驚いてしまったのだろうか。
『俺の中にやましい気持ちがあったからかな……』
「やましいこと……?」
それは、どういう意味だろう。颯に会いに来てやましいと思うということは、まさか、二股をかけているのだろうか。
それで、佐江に対して申し訳ないと思っているのかもしれない。
『やっぱり悪いことはできないみたいです。神さまは見てるのかな』
悪いこととは、もしかしたら颯にキスをしようとしたことかもしれない。佐江がいるのに、他のオメガにうつつを抜かすのは、悪いことだ。
今の諒大は二股をかけている。
そんなことを思うだけで、ぎゅーっと胸が苦しくなる。
『……すみません。俺の独り言です。あーあ、颯さんの笑った顔が見たかったなぁ』
「そんなの見なくていいですよ」
『見たい。どうしても見たいですっ。颯さんに、たくさん笑ってもらえるように頑張りますね』
諒大は頑張るだなんて言うが、諒大は頑張る必要なんてない。諒大がそばにいてくれるだけで、自然と笑顔になれるから。
『それと、さっきの話ですけど、俺はなんでも持ってるって思われがちなのですが、俺が何に代えても欲しいものは手に入らないんです。他の人にはどう思われてもいいんですけど、颯さんだけには俺のことわかっていてほしいです』
諒大がこんな些細なことで反論してくるなんて珍しいことだ。
「諒大さんの欲しいものって、なんですか?」
『……颯さん』
諒大の静かな声。呼びかけられたのかも、ただ独り言みたいに呟かれたのかも、わからないくらいの声だった。
一瞬、颯が欲しいのかと勘違いしてしまいそうになったが、諒大の口調はそんなふうではなかった。
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