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第30話

 諒大が呼びつけてから五分も経たずに、猪戸がやってきた。猪戸は「皆さまにご迷惑をおかけしました」と諒大の代わりに謝ってみせる。  黒スーツがよく似合う、背筋がよくて無駄のない所作の猪戸は、端正な顔つきをしている。歳は三十代前半といったところだろうか。諒大と違って表情に明るさはないが、涼しげな目元はクール系イケメンといった雰囲気だ。 「室長、まいりますよ」 「あー……ごめん、猪戸」 「いいえ、構いません」  猪戸に引っ張られるようにして立ち上がる諒大。諒大はよろめきながらも猪戸に支えられて歩いている。猪戸さえ来てくれれば、これでひと安心だ。 「すみません、颯さん」 「えっ?」  そそくさと帰ろうとしたところを、猪戸に呼び止められた。颯は驚き、ビクッと身体を震わせる。 「ちょっと手伝っていただいてもよろしいですか? 私ひとりでは、少し大変で……」 「あっ、ごめんなさい、気づかなくてっ」  颯は慌てて猪戸とは反対側に立ち、諒大の身体を支える。  諒大は身体が大きい。いくら猪戸でも、諒大の荷物を片手に、ひとりで支えるのは大変だったのだ。 「ありがとうございます、車はすぐそこです」  流れ解散の中、颯は猪戸とふたりで諒大を支えて車へと向かう。  自力で歩いているものの、ふらついている諒大に体重をかけられるとかなり重い。 (あっ……!)  ふらついた諒大が颯の身体に寄りかかり、腕を肩に回してきた。  諒大に身体をぴったり寄せて、こんなに近くで接触してしまい、ドキッとする。  ネクタイを外した諒大の、少し乱れた胸元。  酔って熱を持っているみたいで、色っぽく紅潮している頬。  なによりも堪えるのは、アルファのフェロモンの匂いだ。酔っているせいなのか、いつもより強く諒大のフェロモンを感じる。それは媚薬みたいに誘われる匂いだ。颯はこのフェロモンに呑まれないよう、耐えるのに必死になる。  猪戸とふたりで、やっとのことで諒大の愛車・白のベンツの後部座席に乗せた。ここで役目も終わりだと思っていたのに、猪戸は「颯さんも後部座席に」と颯に促してきた。 「室長のマンションまでお付き合いいただけますか? 私が運転をしますので、そのあいだ室長の様子を見ててください」 「ぼ、僕がですかっ?」 「はい」  猪戸は当然のように頷く。ここには颯よりも力のある男性もいるし、諒大を好きすぎて付き添いを志願したい女子たちもいるのに。 「颯さん以外の人間は、この車に乗せるなと室長にキツく言われてます。私ひとりでは面倒みきれません。お願いします、力を貸してください」  猪戸がかしこまって頭を下げるから、颯は慌てる。 「やっ、やめてください、そんな丁寧に……わかりました。僕でお役に立つのなら、手伝います……」 「ありがとうございます。では、急いで乗ってくださいっ! 颯さんの気が変わらないうちに!」  あれよあれよという間に猪戸に車に乗せられる。  猪戸は「皆さま本日はお疲れ様でした」と律儀に挨拶をしてから、運転席に乗り込み車を発進させる。  この身のこなしの速さ、まるで誰かさんみたいだ。秘書は四六時中一緒にいるだろうから、行動が仕えている主人に似てくるものなのだろうか。

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