猪戸が運転する白のベンツは、諒大のマンションに到着した。駐車場からは、再び猪戸とふたりで力を合わせて意識がはっきりしていない諒大をマンションの部屋に連れて行く。 　諒大が持っていたカードキーを使って、猪戸がマンションの鍵を解除した。諒大を部屋に連れ込み、靴を脱がせて、なんとか寝室のベッドに諒大を寝かせることに成功した。 「諒大さん、こんなにお酒弱かったかな……」 　颯は訝しむ。巻き戻り前の記憶を辿ってみるが、諒大が酔い潰れたところなんて見たことがない。 「おそらく薬の飲み過ぎでしょうね。ここ最近、急に量が増えたように思います」 「飲み過ぎ……？」 「アルファの抑制剤です。そんなことをしていないで、早く相手を探すよう忠告しているのですが、室長は頑固ですから」 　アルファが抑制剤を飲む理由は主にふたつ。オメガの色香に誘われてもフェロモンに惑わされないためと、反対に自分がフェロモンでオメガに悪影響を与えないためだ。諒大の場合は、どちらなのだろう。 「私は室長が高校生のころからお仕えしているのですが、こんなに執着しているところは初めてみました」 「な、何に、ですか？」 　颯が質問すると、猪戸は「これだから自覚のないかたは……」とため息をつかれた。 「あのですね……。あ、すみません、ちょっと室長を見ててください」 　猪戸が何か言いかけたところで、電話がかかってきた。猪戸は着信に応じながら諒大の寝室から出て行った。 　しんと静まる広い寝室に、諒大とふたりきりで残される。 　諒大のマンションには、巻き戻り前に来たことがある。 　広々とした１ＬＤＫのマンションだ。三十畳ほどのリビングダイニングに、開放的な窓の向こう側には大きなベランダと都会の夜景が広がっている。 　寝室には大きなウォークインクローゼットがある。六畳ほどの広さがあると、巻き戻り前の諒大が言っていたから、颯の四畳半のアパートよりも諒大のマンションのクローゼットのほうが広い。颯が住んでいる場所の格差を感じた瞬間だった。 　寝室にあるウォールナットのベッドはキングサイズだ。部屋の広さには余裕があるし、諒大は背が高いから大きなベッドのほうがゆっくり休めるのだろう。 　二度目のデートが、諒大のマンションでのおうちデートだったことを思い出した。 　一度目のドライブデートで恋人同士になり、二度目のデートのときは、諒大にマンションに来ないかと誘われた。 　諒大の手作り料理をご馳走になって、流されるままにお泊まりすることになって、夜には初めて諒大と身体を重ねたのだった。 　その場所がまさにここ、諒大のベッドだ。ここで諒大と甘い甘い一夜を過ごした。 　颯は静かな呼吸で肩をゆっくり上下させている諒大の姿をずっと眺めている。 （かっこいい……） 　諒大のさらさらの髪、一切の歪みがない整った顔、鍛え上げられたたくましい体つき。諒大を構成するすべてのものが好きだ。大袈裟じゃなくて、まつ毛一本一本の長さから、指の先の形まで全部好みだ。 　でも諒大に惹かれるのは颯だけじゃない。諒大はとても魅力的な人だ。強くて、優しくて、大勢の人が、諒大の恋人になりたいと憧れているに違いない。そしてそんな諒大のそばにずっといた幼馴染の佐江も。 　諒大はすぐ近くにいる。 　颯が望めば、いつでも触れられる場所に。 （諒大さんに、愛されたかったな……） 　叶うはずもない、バカみたいなことを夢見る自分に辟易する。鈍臭くて、可愛くない自分は誰からも愛されるわけがないのに。 　ふと諒大の前髪が目にかかっていることに気がついた。髪が目に触れていたら、きっと気になることだろう。 （これは髪を直すだけ！　やましい気持ちじゃないから！） 　自分に言い訳をしながら、そっと諒大の髪に触れる。柔らかくて、艶やかな髪だ。 「うう……ん……」 　諒大が吐息のような声を漏らす。 （わぁっ！） 　颯は諒大が目を覚ますのかと驚いたが、どうやらそんな様子はなく、諒大は静かに眠っているようだ。 「はぁ。よかった……」 　諒大の髪に触れながら、諒大の寝顔を眺めてみる。 　スンと鼻を寄せると、諒大からは極上フェロモンの香りがした。香りを感じただけで諒大に引き寄せられる、強烈な媚薬みたいなフェロモンだ。 　出会ったアルファが運命の番かどうかは、フェロモンで感じ取れると言うくらいだ。颯も、諒大と出会ったときから他のアルファとは違う何かを感じていた。諒大のフェロモンは、頭がクラクラするほど魅惑的で、ずっと感じていたいと思ってしまう。 （ちょっとだけ……） 　申し訳ないと思いながらも、颯は諒大の胸に頭を寄せた。 　布団の上からでも諒大の呼吸を感じる。巻き戻り前、諒大に抱かれたとき、この上なく幸せだったことを思い出した。 　あのときの諒大の抱擁、愛撫、キス。それから身体を繋げた瞬間のことは、今でも忘れない。 「諒大さん……」 　巻き戻り前、恋人だった人の名を呟いてみる。 　諒大のそばで笑っていられたときがなによりも幸せだった。そして、その気持ちは巻き戻ったあとの今も変わらない。 　今も、諒大と一緒にいるときが一番幸せだ。 　優しく微笑んでくれる諒大。颯を楽しませようとしてくれる諒大。ちょっと残念なところがある諒大も微笑ましくて可愛いと思う。 　嫌いになんてなれない。諒大のことをどう思っているかと自分に問いかけるだけで、諒大のことを思い出すだけで、ドキドキと鼓動が早くなっていく。 （好きです、諒大さん……） 　颯は、諒大の唇にそっと自分の唇を近づけていく。 　酔っているせいかもしれない。アルファのフェロモンに当てられたせいかもしれない。颯はどうしても、諒大を求める気持ちを抑えつけられなくなっていた。