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第36話
「あれ……?」
何か気がついた様子の諒大が立ち止まる。つられて颯もその場にとどまると、諒大は急に颯に顔を寄せ、クンクン匂いを嗅ぎ出した。
「えっ、あっ、そんなことを……!」
他人に匂いを嗅がれるのは落ち着かない。昨日はちゃんとシャワーを浴びたから、大丈夫だと信じたい。
「はぁ……すごく気持ちが落ち着きます……」
「ひぁ……!」
諒大がうなじに鼻を寄せてきたとき、吐息が颯の首筋にかかって全身がゾクゾクする。
「颯さん。仕事をサボって、このまま俺とふたり逃避行する、というのは嫌ですか?」
諒大が耳元で囁く。このまま諒大と一緒に過ごせたら、どんなに幸せだろうと思う。でも、颯もこれからアルバイトがあるし、諒大だって今は昼休み中だ。
「ダメですよ。諒大さん。僕、もうそろそろ行かないと。着替えの時間もあるから……」
颯が年上ぶって諒大を嗜 めると、「わかりました」と諒大は素直に諦めてくれた。
「では、これを颯さんにお渡しします」
諒大がポケットから取り出して、颯の手のひらに載せたのは二つ折りの財布だ。
諒大の財布はずっしりと重い。カードやお金など大切なものがたくさん入っている様子だ。黒革のシンプルながらもハイブランドな財布で、使い込まれている雰囲気が、ひとつひとつの物を大切にする諒大らしいなと思った。
「これ、諒大さんのお財布でしょ? なんでこんなものを僕に……」
「持っていてください。カードキーも返されたし、今日、ジャケットも受け取ってしまいました。そしたら颯さんに会う口実がなくなっちゃいます。だから、持っててください」
「えっ? それってどういう……意味?」
「ごめんなさい、カードキーはわざと落としました。ジャケットも確信犯です。今日も財布を颯さんの目の前で落とそうかと思いましたが、さすがに毎回会うたび落とし物するのは変だなと思って、正直に颯さんにお渡しすることにしました」
「あれって、わざと……!?」
諒大に出会った日、諒大のマンションのカードキーが颯のアパートに落ちていた。
たしかに、颯は諒大と連絡を断つつもりだったのに、カードキーのことを伝えなくちゃと結局、諒大に連絡することになってしまった。あれは、諒大の仕掛けたワナだったということだ。
「だって、理由がなかったら颯さんは俺に会ってくれないでしょう? 今日だってこのジャケットがあったから颯さんに会えたんです。でも、これで颯さんに会えるのが最後になるのは嫌なんです。また会いたい。だから、俺の財布を持っていてください」
諒大は颯の手に自分の財布を握らせてくる。
「ね? この中に社員証が入ってるんです。なるべく早く返してもらえないと困るな」
「だったら……!」
颯が突き返そうとしても、諒大に止められる。
「また会ってください。困ったことがあればすぐに連絡して。いつでも、夜中でも、俺は駆けつける準備はあります」
諒大は颯に財布を預けたまま、「また会いましょうね」と笑顔で挨拶をしてホテルの正面入り口から中に入っていった。
(ど、どうしよう……これ)
手の中にある、諒大の質のいい黒革の財布を眺めながら颯は立ち尽くす。
でも、あそこまで言われて嫌とは言えなかった。それに、諒大のいうとおり、これがあれば、財布を返すことを理由に諒大に会うことができる。
(僕、また会いたいって思ってる……)
会えば好きになってしまうのだから、諒大に会わなければいいのに、どうして会いたいと思ってしまうのだろう。
(と、とにかくバイト! 急がなくちゃ)
諒大の財布を大切にトートバッグの奥の奥にしまって、颯は従業員入り口に向かって駆け出した。
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