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第50話
「下心、ありましたよ。だって七瀬さん、室長じゃなくて俺を選んでくれたから」
「え……?」
「家を貸すんじゃなくて、俺は七瀬さんとそういうことするつもりでしたよ」
岸屋が何を言っているのか一瞬理解ができずに、思考が停止する。
「あのとき七瀬さんは、そんなつもりはなかったんですか? 部屋だけ借りるつもりだったと? 俺、めっちゃ期待してましたけど」
岸屋に言われて颯は息を呑む。
岸屋はベータだし、まさか自分が性愛の対象になるとは思ってもみなかった。
でも、今の言い方は、もしかしたらと勘違いしてしまうくらいの言葉だ。
「とにかく、俺は七瀬さんのこと好きですよ」
岸屋と話しているうちに、従業員出入り口に着き、そこで話は途切れてしまった。
(好きって……好きってどういう意味……?)
さらっと言われてしまったので、よくわからない。恋愛のそれではなく、人として好みという意味なのかもしれない。
「そこの人、社員証見せてください」
「あ! はい、ごめんなさい……」
従業員出入り口にいた警備員に注意され、颯は慌てて紙製のアルバイト社員用の証明書を取り出して見せる。その間に、岸屋は別の知り合いに話しかけられて笑顔で会話を始めていた。
颯は岸屋と誰か岸屋の知り合いがテンション高めに話をする後ろをひとり歩いていく。
ふたりの会話は盛り上がっていて、そのさまを見ていると、岸屋は颯と話しているときよりも楽しそうにみえる。
颯は人とあんなふうに盛り上がって楽しい会話をすることはできない。岸屋は、颯といて面白くないんじゃないだろうか。それなのに恋愛対象なんかになるはずがない。
(勘違いだよね……)
今まで恋人なんてできたこともないし、人から告白されたこともないのに、二十九になって急に好かれるなんてことはないだろう。
颯は憂鬱を吐き出すようにして、大きなため息をついた。
「七瀬さん、おかえりなさい。体調はもう大丈夫なの?」
コックコートを着て、厨房の洗い場に向かうと瀬谷が笑顔で声をかけてくれた。
「あ、はい……急に休んで、皆さんにはご迷惑をおかけいたしました……」
颯は頭を下げる。颯が休むと、そのぶんの仕事は他の人にいき、負担が増えたはずだ。それが申し訳なくて颯は身体を縮こませる。
でも、周りは「いいよ、いいよ」「体調はもうよくなった?」と優しい雰囲気だ。
「大丈夫。スポットバイトの人がふたり来てくれたし。西宮室長がね、人事部部長の柳原 さんと組んで人事改革してるみたいなの」
「室長が……?」
「今までは人が足りないときはそれぞれの現場でなんとかしなきゃいけなかったんだけど、それを上の方でやってくれるようになるみたい。七瀬さんも、体調不良で急に休んでも気にしないでいいってことかな」
「あ……よかった、です」
オメガの颯にとっては願ってもないことだ。急に休んでもみんなに迷惑をかけないで済むなら、気持ちがすごく楽になる。
「昨日なんて、七瀬さんの代わりにここに誰が来たと思う?」
「え……?」
「西宮室長」
「ええっ? 嘘ですよねっ?」
颯は目を丸くする。諒大には諒大にしかできない、やるべきことがあるはずだ。皿洗いなんて底辺の仕事をしている場合じゃないはずなのに。
「ホントに来たの! 皿洗い係の気持ちが知りたくなったんだって。最近の室長はなんか違うんだよね。今までは雲の上の人って感じだったのに、私にも室長のほうから話しかけてくれたの! もう嬉しくって、一生ついていきますって思っちゃった!」
瀬谷はご機嫌だ。颯が急に七日間も休んだのに、それを責める様子もない。
それもそのはず。颯が休んだぶんの代わりの人事はあったようだし、昨日は諒大まで手伝いに来たのなら、瀬谷にとってはなんの文句もなかったのだろう。
(諒大さんは将来の経営者だから、底辺の気持ちも知りたかったのかな……)
でも諒大は以前、研修でひととおりの部署を経験したと話していた。今さら皿洗いなんてしなくてもいいのではないか。
颯には、諒大の考えていることはわからない。
(いつか、諒大さんと一緒にお仕事できる日が来るのかな……)
諒大と一緒に仕事ができたらちょっと楽しそうだ。絶妙なコンビネーションで洗い物を片付けて、仕事終わりに少しでいいから、たわいもない話を交わしてみたい。
なんでもない、ごく普通のことを諒大としてみたい。それなら恋人同士になれなくても、諒大のそばにいられるから。
(片想いだっていいや)
諒大のことを想ってるだけでも幸せだ。この恋は叶わなくてもいい。諒大に触れられなくても遠くから見ているだけで十分だ。
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