57 / 94

第56話

「あなたと、きちんとした形で結婚したかったからです。俺は、颯さんに対して誠実でありたかった」  諒大は愛おしげに颯を見つめている。諒大の優しい眼差しは、いつも颯をたまらない気持ちにさせる。  運転席と助手席という距離がもどかしい。もっと諒大の近くにいきたい。諒大の体温を感じて、寄り添って話ができたらいいのに。 「あなたにプロポーズをしたあと、俺は両親に『会わせたい人がいる』と告げました。颯さんを両親に会わせたかったんです。でも、何を勘違いしたのか、俺の母親が佐江の母親に連絡しちゃったんです」 「えっ?」  知らなかった。諒大が颯を両親に会わせようとしていたことも、諒大がそんな問題を抱えていたことも。 「俺、本当に『会わせたい人がいる』としか言ってなかったのに、なんで佐江のとこに……佐江の母親と俺の母親は親友なんです。ふたりして俺の選んだ相手を佐江だと早とちりしたんでしょうね」  諒大の母親も、佐江の母親も、ふたりが結婚する日が訪れることを、今か今かと心待ちにしていたのかもしれない。それで諒大から結婚を仄めかすような言葉を言われて嬉しくて舞い上がり、先走ったようだ。 「そこから話が拗れて、俺と佐江の婚約話に発展してしまって、式場まで勝手に予約されました」 「式場まで!?」 「はい。もちろんカナハホテルです。日付は大安吉日の佐江の誕生日。招待客は企業にとって利益になる人たちばかり。まるで政略結婚ですよ」  息子の結婚式は、企業戦略のための格好の機会になる。そこに、諒大の意思なんてほとんど反映されないのだろう。 「どんどん話が広がっていき、なんとかしないとと思いました。こんな状況では、颯さんと結婚する資格はない。いつか他のところから噂が流れて颯さんの耳に入ってしまうのではと、まずは、颯さんに事情を打ち明けることにしたんです」 「そうだったんですか……」 「婚約破棄したかったのではなく、プロポーズをやり直したかったんです。恥ずかしながら勘違いしてしまった家族の話も話すつもりでしたし、それは俺が全部なんとかするから、準備が整ったらもう一度プロポーズをやり直しさせてください、それまで俺を信じて待っていてほしいと、そう颯さんに伝えたかったんです」  あの話の続きは、準備ができるまで結婚を待っていてほしい、だったのだ。 「でも言い方が悪かった。あんな言い方をしたら颯さん、びっくりしますよね……しかも間の悪い俺は、言い出したところがちょうどあの階段に差しかかる場所でした」  振られたと思った颯は、諒大が何か言葉を続けていたのによく聞こえなかった。あのとき諒大は事情を説明してくれていたのかもしれない。 「そして、あの最悪な結末です。目を覚まさない颯さんは、決していい状態とは言えなくて、そんな姿を眺めているのは本当に心が痛くて……。俺をこんなに幸せにしてくれた、優しいあなたがどうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだって、できるなら颯さんと代わりたいと何度思ったことか」  諒大はうつむく。すぐに巻き戻った颯にとっては覚えのないことだが、諒大にとっては長い長い暗闇のような二年九ヶ月だったのかもしれない。 「でも俺は巻き戻った。今度こそは颯さんを失わないように必死になりました」 「僕を……?」 「はい。俺は佐江との関係を蔑ろにしていたんだと反省しました。俺たちは昔から勝手に周りから付き合ってるだの、将来の結婚相手だのと噂されてきました。まったくその気はないのにですよ? ただアルファとオメガだからって、理由はそれだけです。アルファとオメガは友達になれないんですか」  たしかに颯も諒大の相手は佐江だと思い込んでいた。当の本人たちは違うと言っていたのに、それでもふたりは職場中の噂の的だった。 「でもっ、諒大さん、佐江さんといつもキスしてるんでしょ……。諒大さんちに佐江さんが来たとき聞いちゃった……友達なら、キ、キスしない……」  あのひと言は忘れもしない。諒大が他の人ともキスをしていると知ってものすごくショックだった。 「それにっ、それに、諒大さん。僕にキスをしようとして、泥棒に間違えられて逃げたとき、『やましいことはできないな』って言ってました。あれって二股してたんじゃないんですか……」  今までの鬱憤を発散するみたいに、諒大に言いたかったことを全部ぶつける。佐江と諒大の関係を疑う瞬間は、いくつもあった。 「やっぱり聞いてたんですね。俺と佐江が玄関で話していたことを。だから颯さんは俺のマンションから逃げた。そうじゃないかと思っていました。佐江と俺は、関係を一度はっきりとさせる必要があるんです」  諒大と佐江は、なんでもなくても、佐江の存在が颯の気持ちを大いに煩わせているのは間違いない。そのあたり、曖昧なままだから変に勘繰って勘違いしてしまうのだ。 「佐江とそんなことしませんよ。あれは佐江が俺をからかっただけです。玄関に颯さんの靴を見つけて、颯さんが来ていることを知った佐江は、俺を茶化すために冗談を言ったんだと思います」 「冗談……?」 「昔からああなんです。バレンタインに俺にチョコを手渡してきて『ホワイトデーのお返しはキスでいいから』とか、『テストの点が一教科でも勝ったらキスして』とかそんな冗談ばかり言われて、真に受けてキスしたら平手打ちされるパターンですよ」  諒大は佐江は困ったやつだ、みたいな顔をしているが、颯には少しだけ佐江の気持ちに共感するところがある。  ふたりは距離が近すぎたのだ。  母親同士は親友。小中高一緒の幼馴染。そんな兄妹みたいな関係性の人に恋愛感情を抱いてしまったときはどうする?  下手に告白して、今までの関係が壊れるのは怖い。そうなると冗談みたいに言って諒大の反応を伺うしかなかったのではないか。  佐江の本心はどうなのだろう。佐江は諒大のことを慕っているのではないだろうかと、いまだに勘繰ってしまう。 「やましいことっていうのは、颯さんに手を出そうとしたことですよ。俺は最初に『颯さんには触れない』と約束したのに、あのとき颯さんに必要とされて調子に乗ってしまったんです。颯さんに触れようとしてしまいました。あとからそのことを反省したまでです。佐江はまったく関係ありません」  諒大はきっぱりと否定した。  諒大はまったく佐江に恋愛感情を抱いていないようだ。佐江の気持ちはわからないが。 「巻き戻り前の俺は、入院している颯さんにつきっきりだったので、俺が颯さんと特別な関係で、婚約までしていたことが周知になりました。佐江は可哀想に、俺に捨てられたと変な噂を立てられるようになり、会社を退職せざるを得なくなりました。あれは俺のせいです。俺が颯さんと結婚しようとしたときに、変な誤解が生じたのも佐江との関係について俺が何もしてこなかったからです。巻き戻った俺は、これをなんとかしないと、と思いました」  巻き戻った諒大は、今度こそ佐江との問題が起きないように、誰も不幸にならないようにと奮闘していたのだ。

ともだちにシェアしよう!