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第65話
「本当に颯さんは、俺から何も奪おうとしないんですね」
スマホで決済を済ませたあと、諒大は颯の顔をじっと覗き込んできた。
「颯さんは欲しいもの、ないんですか?」
「欲しいもの……?」
「はい。わかりやすいものでいうと、お金とか、地位とか、社会的な名誉とか?」
「うーん……」
颯は答えに困る。お金は欲しい。でも一日に一千万円もいらない。生きていくだけのお金があればいい。
地位はいらない。人前で話したり誰かに命令したりするのは苦手だ。
社会的な名誉。みんなに邪険にされて蹴っ飛ばされなければいい。今の職場はなかなか気に入っているので、このままで十分だ。接客業は苦手だし、洗い場の仕事は自分に合っていると思う。
「だからかな。颯さんからは敵意をまるで感じません。それが、すごく安心します。俺の周りは欲にまみれた人たちばっかりですから」
諒大は、颯を抱き枕みたいにして抱きしめる。
「颯さんは人を傷つけようと思ったことなんてないでしょ?」
「はい……。だって、僕、傷つけられることがどれだけ痛いか、身をもって知ってますから。心を硬い石にしても刺さるくらい、すごく痛いんです……」
悪口、差別、理不尽な扱い。それだけは何度も受けても決して慣れることはなかった。そのたびに心が痛くなり、ひとりで何度も泣いた。
あんな思いを誰かに与えたいとは思わない。人を傷つけたら不幸が生まれる。不幸のバトンを誰かに押し付けても、自分は幸せにはならない。この悲しいバトンは、颯 で終わりにしたいと思うから。
「たくさん辛い目に遭ったから、人の気持ちがわかるんですね……」
諒大は颯の頬に、慈しむようなキスをする。
「そういうところです。俺が、颯さんを好きになった理由。あなただけは、俺から何を奪おうとしない。俺を傷つけようとしない。それって簡単なことじゃないですよ。一緒にいて、こんなに気持ちが安らぐ人は他にいないです。すごく安心します……」
諒大が颯の肩に頭をのせてきた。その仕草に颯はちょっと嬉しくなる。諒大の心のよりどころになれるのなら、なによりだ。
「少しだけ、甘えさせてもらってもいいですか?」
諒大が颯に寄りかかってきた。諒大の柔らかな髪が、颯の首筋をかすめて少しこそばゆい。
諒大は目を閉じ、穏やかな呼吸で颯に身を預けている。
若くして社会的地位のある諒大は、いつも気を張って生きているのではないだろうか。
周囲が諒大に求めるレベルはとても高い。でも諒大はその期待に応えるべく、たゆまぬ努力を続けているに違いない。
「頑張ってる諒大さんは偉いです」
颯は自分の肩に寄りかかる諒大の髪を撫でる。すると諒大は「ん……」と気持ちよさそうに吐息を漏らした。
「颯さんだったら、俺が落ちぶれて御曹司じゃなくなっても、そばにいてくれそうだな……」
「そういうときこそ、諒大さんのそばを離れませんよ」
諒大が無一文になったら大変だ。周りから揶揄されたり、諒大が辛い目に遭うに違いない。そんなときこそ、諒大を支えたいと心から思う。
「あなたのそばが俺の居場所です。巻き戻って、こうしていられることがどれだけ幸せか」
「僕もです」
巻き戻って、勇気を出してよかった。諒大さえいてくれたら、たとえ無一文になって無人島に放り出されても生きていけると思う。
「ありがとうございます、颯さん」
ぐいっと肩を掴まれて身体を反転させられる。颯は諒大と向かう合うような形になる。
「そうだ。颯さん、練習しませんか?」
「練習……?」
「おねだりの練習です」
「えっ! なにそれ!」
びっくりしてつい、声がうわずってしまった。おねだりの練習とはなんだろう。
「颯さんは欲しがるのがヘタクソです。欲がなさすぎます。だから毎日ひとつ、俺におねだりしてください。それを俺が叶えます」
「な、なんで……」
「俺としては、もう少しワガママを言ってほしい。颯さんは自分の気持ちを表現する練習になる。これは、お互いウィンウィンの関係です」
「でも……」
颯の願いばかりを毎日叶えてもらうのは、ちょっと申し訳ない気がする。でも、お返しに諒大の願いを叶えてあげられるほどの力は颯にはない。
「ほら。今日のぶん何か俺におねだりしてください。何が欲しいですか?」
諒大が有無を言わせない雰囲気で颯に迫る。これは、何かおねだりしないと許してもらえなさそうだ。
「じゃ、じゃあ……」
颯には、ずっと前から欲しかったものがある。それは諒大にしか頼めないものだ。でも本人を目の前にしても、なかなか言い出せなかった。
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