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第68話

 猪戸の言うことが一瞬、理解できなかった。それはどういう意味なのだろう。 「大丈夫ですよ。立場は心得ています。決して邪魔はいたしません。室長と何かあったら、私がいますから、なんでも相談してくださいね」 「あ、ありがとうございます……。じゃ、じゃあ諒大さんのことで相談したいとき、お願いします」  なんだかよくわからないけれど、困ったときに猪戸は助けてくれるつもりのようだ。諒大の秘書は、諒大のプライベートも陰ながら支えているらしい。 「お待ちしてますね」  どうやら猪戸は、颯が失礼な真似をしても怒らない寛大なタイプで、しかも颯のお悩み相談にも乗ってくれるつもりらしい。  諒大との付き合いは猪戸のほうが颯よりも長い。困ったときには、猪戸に聞いてみるのもいいなと颯は密かに思った。 「颯さんっ! すみません、俺が迎えに行きたかったのに、どうしても間に合わなくて……」  諒大の実家に着くなり、ほとんど同じタイミングで駐車場に着いた諒大が颯を見て駆け寄ってきた。 「猪戸さんが迎えに来てくれましたし、大丈夫ですよ」  笑顔で諒大を見上げる。すると「よかった」と軽くハグされ、うなじを撫でられた。  アルファの諒大は無意識のうちに、颯のうなじを気にしてしまうのかもしれない。 「それでは私はここで」  猪戸は律儀に頭を下げてきた。そのあと颯に近寄り、耳打ちする。 「さっき車でお話したことは、内密にしましょうね」 「えっ!」  驚く颯をよそに、立ち去ろうとした猪戸を諒大が「おい」と呼び止める。その顔も声も、全然穏やかじゃない。 「猪戸。颯さんに馴れ馴れしくするな」 「かしこまりました。ですが、あんまり執着が過ぎるアルファは嫌われますよ」 「な……っ!」  猪戸の思わぬ反撃に、諒大がたじろいだ。 「そんなに颯さんが特別ですか?」 「当然だろ。特別に決まってる」  諒大は猪戸を強い視線で睨みつけているが、颯は、真剣な顔をする諒大を見てドキドキが止まらない。 (諒大さんが僕のこと特別って言ってくれた……)  颯の心の中はハッピーだ。さっき車の中で猪戸にも話したが、この特別感がたまらなく嬉しい。  やっぱり諒大に愛されているんだと自信が湧いてくる。諒大のことはもちろん信じている。でもまだ交際したばかりで、時々不安になるときがあるから。 「だから父さんに会わせるんだ。俺が選んだ相手は颯さんだってはっきり示してやる」 「だったらプロポーズが先でもよかったのでは? 颯さんは交際したばかりで、いきなり家に連れて来られて困るのではないですか?」 「プロポーズの後じゃダメだ。ダメなんだよ」  諒大はグッと颯の手を握る。その力の強さに諒大の想いを感じる。  颯にはわかる。諒大は巻き戻り前と同じ目に遭うことを恐れているのだろう。 「……そうですか。わかりました。颯さん、それではまた。失礼いたします」  猪戸はもう一度頭を下げてから、ふたりとは別の小さな出入り口から姿を消した。そこは従業員入り口みたいだ。 「猪戸は元この家の執事です。俺が就職するときに、秘書になってくれってスカウトしたんです」 「へぇ。じゃあこの家に慣れているんですね」  そういえば、猪戸とこの家の者たちはずいぶんと親しげに話をしていた。あれは諒大の秘書としてではなく、かつての同僚に対してのものだとしたら納得だ。 「あんなふうに俺にはっきりと意見してくるんですよ。それが、心地よくて。俺は兄貴みたいに思ってます」  諒大に案内されながら、広すぎる芝生の庭園を抜けていく。  都内一等地のはずなのに、ここだけは緑が生い茂り、青々とした五月の新緑の匂いを感じる。 「でも、さっきのは許せない。颯さん。猪戸と俺に言えないような話をしたんですか?」 「えっ!」  諒大にジト目で見られて、颯はなんと言ったらいいのかわからなくなる。  諒大に特別扱いされることが嬉しいと調子に乗っている発言をしたなんて、諒大に知られるのは恥ずかしい。 「あ、あれは別に何も……」 「颯さんと猪戸だけの秘密? 面白くないな。……あいつ、わざと俺の前で颯さんにあんなこと言いやがって」 「ヒェ……!」  さっきの出来事を諒大はまだ根に持っていたようだ。颯はなんと返したらいいのか返答に困る。 「あいつどういうつもりであんな……」 「あ、あの、諒大さん」  颯はブツブツ猪戸の文句を言う諒大を遮るようにして、愛しい人の名前を呼ぶ。 「決してやましいことではないですよ」  颯は諒大の腕に、自分の腕を絡める。 「今日はずっと緊張してたんですけど、諒大さんの顔を見たら安心しました。諒大さんが一緒なら大丈夫だって思えたんです。頼りにしてますね、諒大さん」  諒大の腕にそっと頬を寄せると、諒大が颯の髪をよしよし慰めるみたいに撫でてくれた。その手は優しく颯の肩を抱く。 「颯さん。わかりました。颯さんのこと信じてます」  諒大の声も、視線も優しい。よかった。諒大はもう怒っていないみたいだ。 「一日でも早く、結婚しましょうね」  諒大がいきなり額にキスをするから、颯は「ひぁっ……!」と変な声が出た。  こんなにイチャついていて、周囲に誰かいたらどうしようかと、辺りをキョロキョロしてしまった。そのさまがおかしかったのか、諒大が笑い始める。 「アハハッ、アハッ、本当に颯さんといると楽しいです」 「諒大さんっ、笑いすぎ!」 「ごめんなさい、つい」 「もう、諒大さんたらひどい!」  颯が諒大に文句を言ってドンと肩を押すと、その手を反対に掴まれた。 「その調子ですよ、颯さん」 「……え?」 「颯さんは、怒る練習をしなくちゃ。ひどいことをされたら、ひどいと言い返していいんです」  諒大の表情は穏やかだ。颯に怒られたのに むしろ喜んでいるようにみえる。 「怒る、練習……」 「はい。自分の中に鬱憤を溜め込んだら、窒息してしまいますよ。だから俺に怒ってください。さっきみたいにね」  諒大に言われて気づく。人におねだりしたり、怒ったりすることはワガママなことじゃない。自分を表現することは、呼吸をすることと同じく生きていく上で必要なことだ。  運命は決められていない。  自分がどうしたいか、自分の気持ちに正直にならなければいけない。そして諒大ならきっと、颯の気持ちをすべて受け止めてくれる。 「あ! 今日のぶんのおねだり、考えておいてくださいね。いいですか?」 「えっ、あっ、はい……」 「あー! 楽しみだなぁ、颯さんのおねだり」  楽しみだなんて言われて微笑まれたら、なんでもいいから、諒大におねだりするしかない。  でも諒大のおかげで、さっきまで緊張していた身体がすっかり解けていることに気がついた。 (諒大さんとなら、ずっと一緒に暮らしていけそうだな……)  犬も食わない夫夫喧嘩をしたり、楽しいことで笑い合ったり、幸せな家庭が築けそうだなと、ふと思う。第六感にも似た直感で。 (家族って、どんなものなのかな)  少しだけわくわくする。幼い頃から家族というものに憧れていた。  もしかしたら夢が叶うかもしれない。そんなことを想像するだけで、颯の顔から自然と笑みが溢れた。

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