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第72話

『颯さん。六月二十五日は仕事が立て込んでいるんです。ゆっくりお祝いしたいので、前日に誕生日ディナーに行きませんか?』 『はい、いいですよ』  仕事を終えた颯は、四畳半のアパートで着古したヨレヨレのルームウェアに身を包み、スマホで諒大とのやり取りに夢中になっている。  あれから諒大との交際は順調だ。忙しい諒大は時間を作って颯に会いに来てくれるし、会えばいつもふたりきりの時間を仲良く過ごしている。 『少しかしこまった店を予約しました。ドレスコードがあります。すみません』  そんなメッセージとともに送られてきたリンクの店は、高層ビルの三十三階、夜景の綺麗な有名シェフのコース料理の店だった。 「うわ、すっご……え、高っ……」   アパートの床面積の大半を占めているシングルベッドに寝っ転がりながら、その金額を見て思わず声が出る。多分、この店で普通に食事をしたら、颯の一ヶ月ぶんのアルバイト代じゃ足りないくらいだ。 (もしかして、諒大さん、プロポーズするつもりかな……)  こんな特別な店に連れて行ってくれるなんて、何か意味があるのではないかと期待してしまう。 (わかりやすいなぁ、諒大さんたら)  きっとプロポーズはサプライズだ。だから、わかってましたみたいな顔じゃなくて、驚いた反応をしなくちゃな、と颯は今から心に決めておく。 『もしよければ、この日に間に合うように一緒に服を買いに行きませんか? 颯さんに服をプレゼントしたいです』  たしかに着ていくものに困っていた。諒大が一緒に選んでくれるなら安心だ。 『はい。買いに行きたいです』  颯が返信すると、すぐに諒大は日時を決めようと空いてる時間を教えてくれる。  忙しいのに会おうとしてくれるのは、本気で愛してくれている証拠だと、いつかネット記事で見たことがある。  諒大がまさしくそうだ。分刻みのスケジュールのはずなのに、他の予定を変更してまで颯のために時間を割いてくれる。 (早く結婚したいな……)  籍を入れてしまえば、諒大の父親から一緒に暮らしてもいいと言われている。諒大とふたりで暮らせば、無理に予定を合わせなくても、毎晩諒大に会えるようになる。  でも、それもあと少しかもしれない。  自惚れかもしれないけれど、諒大からのプロポーズは目前の気がしているから。  六月二十四日。昨年オープンした複合施設のタワービルディングの三十三階へと連れて行かれた。  好立地にあるこのフレンチレストランは、大きな窓の外、まさに目線の高さに東京タワーが見える。白い清潔なクロスがひいてある、二名用のテーブルがゆったりと等間隔に並んでおり、カウンター席以外、どの席からも夜景が一望できる仕様になっているようだ。  諒大と一緒にこの店に来て、颯は驚いた。  「西宮さま、いつもご来店ありがとうございます」  ディレクトール(支配人)だけじゃない、シェフ自らテーブルに挨拶にくるほど、諒大はこの店の常連だったのだ。 「こんばんは。今日もいつものコースをお願いします。ワインは飲み口の優しい、新しめのものを」 「かしこまりました。ソムリエに伝えておきます」  軽く世間話をして、シェフが立ち去ってから颯は諒大に訊ねる。 「諒大さんってこの店の常連なんですか?」 「はい。よく利用しています。いつか颯さんも連れてきたいなと思っていたんです。よかった。予約が間に合って」 「こ、こんな高いお店の常連……」  てっきり特別な店に颯を連れてきてくれたのかと思っていた。でも、諒大にとっては普段使いの店という感覚らしい。

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