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第74話
「颯さんの笑顔、素敵です」
「エヘヘ、そうですか?」
諒大に言われて颯は照れながら笑う。最近、職場でも笑顔がいいねとよく言われるようになった。仕事中、諒大のことをよく思い出すからかもしれない。
「これからもずっと、笑顔でいてくださいね」
「はい」
颯は頷く。諒大がいればきっと自然に笑顔になれるはずだ。
「では。おやすみなさい、颯さん」
「えっ?」
あっさりと諒大が帰ろうとするので、颯は思わず諒大のジャケットの裾を掴んで引き止める。
「どうしました? 颯さん?」
「えっと……えーっと……」
引き止めてから、颯はアワアワと言い訳を考える。
「そ、そうだっ、あのっ、おねだり、したいです……」
モジモジしながら上目遣いで諒大を見ると、諒大は「そうでしたね」と微笑んでくれた。
「なんですか? 颯さんのおねだり」
ニコニコと颯の返答を諒大は待ってくれている。おねだりしたいことは決まっているし、言うしかないのに、どうしても言葉が口から出てこない。
「あ、あの……」
「はい」
「あのですね……」
「はい」
「か、帰らないで……ください」
颯は強く諒大のジャケットの裾を握る。
諒大の目がパッと見開いた。ひどく驚いたのかもしれない。颯のおねだりが予想外のことだったのだろうか。
「一緒にいたい……離れたくない——」
言葉の途中、諒大の唇で唇を塞がれた。諒大らしくない、余裕のないキスだった。
諒大はゆっくり唇を離したあと、弱々しく微笑む。
「颯さんのおねだりだから、叶えなくちゃ。わかりました。朝まで一緒にいます。それでいいですか?」
おねだりを理由にして、忙しい諒大を繋ぎ止めてしまった。明日もきっと仕事だろうから、さっさと家に帰って休もうと思ってただろうに、それでも諒大は颯のワガママに付き合ってくれるつもりのようだ。
「はい。十分です。どうしよう……こんな部屋だけど、諒大さん上がってください」
「いいんですか? 颯さんちに入るの初めてだな。いつも玄関までだったから」
「はは……足の踏み場もないくらい、狭いですけど」
言いながら、どうやったら諒大をもてなすことができるか考える。電気ガス水道は止められてはいないが、ベッドはシングル、身体を縮こませて入るユニットバス。諒大の家のクローゼットよりも狭いこの部屋にいるなんて、諒大は窮屈なんじゃないだろうか。
「颯さんの匂いがします」
「えっ! クサいっ?」
颯が過剰に反応すると「そんなことある訳ないじゃないですか」と笑われた。
「颯さんちに、俺を泊めてくれるんですか?」
「え、ええ、まぁ……」
「そんなことしたら、襲っちゃいますよ?」
「ひぁっ?」
(この狭いベッドでっ!? 壁も薄いのに諒大さんとっ?)
「嘘ですよ。颯さんがしたくないのに手は出しません。だからそんなに怯えないでください」
諒大は「荷物ここに置かせてもらいますね」と部屋の端にカバンを置き、ジャケットを脱ぎ始めた。
(手、出してもいいのに……)
颯は怯えたつもりなんてない。諒大にだったら何をされてもいいと思っているのに。
(いつもだったら、がっついてくるくせに……)
諒大はそういう雰囲気に持ち込むのがうまい。ふたりきりになれるように、やや強引に迫ってくるし、そういうシチュエーションに持ち込まれたあと、諒大に乗せられてエッチな展開になるのに。
颯は諒大の背中に引き寄せられるように近づいていく。そのまま、目の前にいる愛おしい人の背中に両腕を回して抱きついた。
「颯さん……?」
「避けて、ませんよね……?」
颯は諒大の腰に回した腕にぐっと力を込める。
「そんな、俺が颯さんを避けるなんて——」
「どこにも行かないで……」
颯が訴えると、諒大は身体を回転させて、両腕いっぱいに颯を胸に閉じ込める。
「可愛いな。そんなこと言われたら離したくなくなりますよ」
「ほんと……? どこにも行かない?」
「颯さん。やっぱりエッチなこと、しましょうか?」
「えっ、あっ……!」
諒大の手が颯の尻に伸びてくる。
「紳士らしくいたいのに無理です。どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう……俺、颯さんのことになるとバカになる……」
諒大と抱き合い、倒れるように眠って、再び颯が目を覚ましたときはすでに朝だった。
早朝なのに、完璧にスーツを着用していた諒大は「おはようございます。俺、もう出ますね」と颯の額に軽くキスをする。
「あ、諒大さん、ごめんなさい寝ちゃって、何もできなくて」
「お構いなく」
諒大は愛おしそうな眼差しで颯を見て、ふわっと髪を撫でてきた。
「さよなら、颯さん。またいつか会いましょう」
「え? あ、はい……。会いましょう、ね」
「はい。必ず」
諒大は大きく頷き、笑顔を残して颯のアパートを出て行った。
誕生日前日デートは、とっても楽しくて最高の時間だった。食べたこともないような素敵なディナーに、スーツとバラのプレゼント。それから甘い甘い夜の交わり。諒大は優しくて、愛情深くて、悪いことなんてひとつもなかった。
でも、諒大からのプロポーズはなかった。
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