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第86話
見上げると、そこには猪戸が立っている。
猪戸は颯の前に座っているのが佐江だと気がつき、驚いた様子をみせる。
「佐江がなぜここに……」
「諒大が来るまで七瀬さんとお喋りしてただけ。たまたま会ったの。だからそんな怖い顔しないでよ」
「颯さんに暴言を吐いたり、妙なことを吹き込もうとしたら、私が許さない」
猪戸は佐江をまるで敵かのような目で見ている。何か誤解をしているようだ。
「猪戸さん、違いますっ、ホントに佐江さんと普通に話をしてただけですっ」
黙っていられなくて颯は口を挟む。
「颯さんがそう言うなら。ですが、困ったことがあればいつでも連絡してください。ひとりで抱え込もうとしないでくださいね」
「あ、りがとうございます……」
戸惑いながらも颯は猪戸に礼を言う。猪戸は諒大から颯を助けるよう、指示を受けているのだろうか。
「なにその態度。私、初めて見たけど。猪戸さんていつも厳しいのに、七瀬さんだけ特別扱いなんだ」
佐江に突っ込まれても、猪戸は「颯さんは大切なかたですから」と表情も変えずに冷静だ。
「猪戸さんも仕事終わり?」
「はい。室長に、このあとはデートだから帰っていいと言われました」
「じゃあさ、私も車に乗せてよ。今朝、ロールスロイス運転して来てたじゃん。諒大んちの前まででいいから。そしたら猪戸さんの手間にもならないでしょ?」
ふたりの話を聞いていて颯は諒大の話を思い出した。
猪戸は今朝、諒大の実家の車を運転して諒大の母親・京子を東京駅まで送迎する仕事があった。となるとその車を諒大の実家に戻す仕事がある。
佐江は諒大の実家のすぐ近くに住んでいる。それなら、車に佐江を乗せたら一石二鳥だ。
「ダメだ。あの車は西宮家のものだから私的に使うことはしない」
「えーっ……真面目!」
佐江は膨れっ面をしたが、「やっぱりね」としつこく猪戸に迫ることはなかった。
「颯さん。室長はすぐにいらっしゃいます。私はここの支払いをしろと命じられ、ひと足先に降りてきました」
「えっ? あ、そんなわざわざ……すみません。ありがとうございます、猪戸さん」
颯が微笑むと、珍しく猪戸も口角を上げて微笑み返してくる。
「いいえ。構いません。私はその笑顔が見れただけで私は満足ですから」
猪戸は佐江と颯、ふたりぶんの伝票を手にして一礼し、店のレジへと向かって行った。
「よかったね。諒大もうすぐ来るって」
佐江は席から立ち上がり、「またね」と小さく手を振る。
そのまま立ち去ろうとする佐江を、颯は「待って!」と引き止めた。
「え? なんですか?」
佐江はきょとんとしている。
「お店の入り口で少し、待っててください」
颯が向かう先は猪戸のもとだ。猪戸はレジで支払いを済ませたところだった。
「猪戸さん。お願いがあります」
颯は、猪戸にスマホの画面を突きつける。その画面には、諒大との通話の画面が表示されている。
「西宮家の人の頼みなら、使ってもいいんですよね? ロールスロイス」
これは颯の勘だ。他人がどうこうしても恋愛はうまくいくとは限らないし、余計なお世話かもしれない。
それでも、今日だけは自分の勘を信じてみようと思った。
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