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第87話
ここは雰囲気のいい、夜のライトアップされた海沿いのショッピングモール。颯が、結婚間近の恋人・諒大と初めて会った思い出の場所だ。
さっきまでは夏の線状降水帯の影響で、強い雨が降っていた。それも今は上がって、夜風が涼しくて心地よい。
本社ビルで諒大と合流したあと、佐江と猪戸と別れ、諒大とふたりでオープンデッキを並んで歩いている。
「それにしても颯さんのさっきの電話は驚きました。いきなり『今日のおねだりです。ロールスロイスを貸してください』って言われても、俺はなんのこっちゃでしたよ」
「すみません。でも、どうしても猪戸さんに佐江さんを送ってもらいたくて……」
あのあと、諒大に指示してもらったのだ。諒大の指示ならば、猪戸は佐江を家まで送り届けてくれる。
そうすれば猪戸と佐江はふたりきりで話す機会になるかなと颯は考えた。人は、話す機会が多い人ほど、距離が近い人ほど好きになる傾向にあるといつかのネット記事で読んだことがあったから。
「なんで」
諒大は優しい声で言う。
「なんでそんなことをしたんですか?」
「えっ、あっ、あの……」
諒大への恋心が実らなかった佐江に対して、お節介を焼いたことなど諒大には話せない。
「あっ、雨の日は帰るの大変だし、猪戸さん、ついでだったら乗せてあげてもいいのにって思ったから……」
「雨、上がってますけどね」
「あっ……」
なんでもないを装って言い訳したかったのに、颯にはそれができない。明らかに怪しい喋り方になってしまった。その証拠に、諒大は呆れ顔をしている。
「……そうですか。まぁ、颯さんのことだから、優しい気持ちからなんだろうなって思ってます」
諒大はにっこり微笑み「雨上がりは涼しくなりますね」と夜空を見上げた。
「ヒート明けで、体調は大丈夫でしたか?」
「大丈夫でした。みんなには諒大さんと婚約して番ったことをたくさん聞かれましたけど……」
颯はタートルネックの下のうなじに触れる。そこには間違いなく諒大に噛まれた痕が残っている。
「俺も今日一日、婚約の話ばかりでした。でも、幸せでしたよ。颯さんと結婚するんだって実感が湧いてきました」
隣を歩く諒大は颯の腰に腕を回してきた。諒大に触れられ、諒大の近くに身体を引き寄せられて、心臓がドキドキしてきた。
「この一週間、颯さんとずっと一緒にいたから、離れるの寂しかったです」
諒大は颯のこめかみに軽くキスをする。
「諒大さん。朝には会ってるんですよ?」
まったく大袈裟だなと呆れてみせるが、颯も諒大と会ってから、諒大に抱きつきたい気持ちを必死で抑えている。
ヒートの一週間、ほとんどの時間を諒大とふたりで過ごした。その期間、本当に目が合えば諒大とくっついていたので、今こうして数時間ぶりの諒大との接触を、颯も懐かしく感じた。
「朝に会ったけど、久しぶりに離れてたから寂しかったです。俺、どうかしちゃったのかな。今日一日、颯さんに会いたくて会いたくて仕方なかったです」
「わっ!」
ひと目も憚らず諒大に抱きしめられた。こんなところでと諒大を跳ね除けようとするのに、諒大の温もりと魅惑的なフェロモンのせいでここから抜け出せない。
諒大と番になってから感じること。颯は諒大のフェロモンをより好むようになった。
今みたいに抱きしめられて、そのフェロモンを近くで感じるとたまらなく心地よい。
「好き……」
思わず口をついて出た颯の呟き。
「俺も好き。大好きです」
諒大は愛おしそうに颯の背中を撫でる。
「プロポーズをなかったことにしないで。諒大さんと結婚したい……」
ふたりにとっていわくつきの階段はすぐそこにある。
あのときの自分は言えなかった。でも、今なら言える。
「なかったことにするつもりはありません。颯さんと結婚するに決まってますよ。こんなに好きなんだから……」
諒大の優しい声が、手のひらの温もりが、諒大のすべてが、颯に好きという気持ちを伝えてくる。
運命を何度ぐるぐる回っても、ここに還ってくるんだ。
颯は大好きな運命の番の腕の中で目を閉じ、最愛の人との未来を密かに思い描いていた。
——完。
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