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番外編3『本音を聞かせて』
「えっ、嘘っ?」
颯は真っ青になる。諒大との結婚前に、こんな試練が待ち受けていようとは思いもしなかった。
「そうですよ、結婚前に一度もケンカをしたことがないカップルは要注意です。付き合っているときと違って結婚はキレイごとだけじゃ済まないんですから」
同僚の岸屋の言葉に、周りの仲間たちもうんうん頷いている。その中には既婚者もいるから、颯は余計に焦る。
「一度くらい本音で話し合う経験ってのが大事らしいです。それを乗り越えて本当の絆ができるんですよ」
「雨降って地固まる……」
「それそれ、それですよ。困難を一緒に乗り越えてこそ、相手の本音が見えてくるんですって」
「どうしよう……」
何度思い起こしても、諒大とケンカをした経験などない。諒大はいつでも優しくて、颯が何をしても怒ることはない。
「無理しなくていいんじゃない? 何をしても離婚するときは離婚するのよ」
既婚者のパートのおばちゃんからのありがたい助言も、颯の心には響かない。
(何があっても諒大さんと離婚なんてしたくない)
颯は別にどうなってもいい。けれども諒大には離婚のバツをつけたくない。なんでも持っている御曹司アルファの完璧な履歴書に傷をつけたくない。
怖い。
でも、ケンカのひとつも乗り越えられないようでは、長い結婚生活を送るのは難しいと思う。
「颯さんは本音を言えなさそうなタイプですもんね。なんかすぐ我慢しちゃいそう」
「えっ! 当たってるよ」
気持ちを表現するのは昔からずっと苦手だ。そのくせ、限界が来るとわけもわからず涙があふれてきて、ひとりきり泣いていることがある。
「一度室長とぶつかってみるのもアリですね。めっちゃ我が儘言ってみたらどうですか?」
ケラケラと笑いながら岸屋がくれたアドバイスは、妙に納得のいくものだった。
(我が儘か……)
明日は諒大とのデートだ。明日のデートの目標は決まった。
我が儘を言って、諒大とケンカをしてみせることだ。
今日は諒大とお買い物デートだ。諒大がお揃いのルームウェアとスリッパと洗面グッズが欲しいというので、それに颯が付き合う形でのデートとなった。
颯の右手の怪我をきっかけになんとなく諒大の家にいるようになり、怪我が治った今は、アパートと諒大の家を行き来するような半同棲生活を送っている。
正式に一緒に暮らすことは「結婚するまでダメだ」と、諒大の父親から止められているからだ。
「今日は俺に付き合ってくれて、ありがとうございます、颯さん」
「う、ううんっ。僕も、楽しみにしてた、から……」
しまった。
我が儘を言うつもりが、つい諒大を笑顔を見たら嬉しくなって、ワクワクして昨日の夜なかなか寝付けなかったことを思い出して「楽しみにしてた」と言ってしまった。
「俺もです。遠足の前日の小学生みたいに、昨日眠れなくて目の下にクマができちゃいました」
諒大は「ほら」とめちゃくちゃかっこいい顔面を颯に見せてくる。よく見ればクマがあるけれど、あまりのビジュアルのよさに全然目立たない。
「かっこ悪くてごめんなさい」
「いいえ、諒大さんは今日もかっこいいですっ」
またやってしまった。
元から諒大の顔は好みなのに、そんな顔が迫ってきたらつい「かっこいい」と本音が漏れてしまうに決まっている。
「嬉しいです。颯さんに言われるのが、他の誰に言われるよりも嬉しい」
諒大はみるみる笑顔になる。
(あぁ、もう。嫌なところがひとつもなくて、困っちゃうよ)
こんな調子でケンカができるだろうか。でも、今日はたくさん我が儘を言って、諒大を困らせてやる。
耐えきれなくなった諒大は、颯に本音をぶつけてくれるはずだ。
「諒大さん。荷物重いから、持って」
颯は自分のトートバッグを諒大に無理矢理押しつける。そのバッグを両手に抱えながら、諒大は驚いた顔をする。
(ごめんなさい、諒大さん。嫌なものを押しつけて)
やったそばから悪いことをしたとドキドキしてしまう。でも、諒大の本音を聞いてみたい。一度でいいから。
「はい。お持ちしますね、颯さん」
諒大は嫌な顔ひとつせずに、颯のトートバッグを肩にかけた。今日の諒大の上質なジャケットには全然似つかわしくないヨレヨレのトートバッグだ。
「嫌じゃ、ないんですか?」
「だって俺は颯さんを守るナイトですよ? 嫌なわけありません。俺から『荷物を持ちます』って言えばよかったって後悔しているくらいなんですから」
「そ、そうなのっ?」
まずい。これはかなりの強敵だ。
どうしたら諒大を怒らせることができるのだろう。
「颯さんていつも荷物多いですよね。何が入っているんですか?」
「えっ? あ、えーっと。財布とスマホ。タオルにティッシュ、ハンドクリームと絆創膏と爪切りと薬、非常食のお菓子と水筒と、図書館で借りた本と、スプーンにフォークにお箸、エコバッグ……」
「すごい。颯さんのバッグはなんでも出てくる便利バッグですね」
物多すぎ! と笑われると思ったのに、諒大は褒めてくれた。
「それじゃ重いはずだ。これから俺がいるときはいつも颯バッグは俺が持ちますね」
「えっ、そんなの悪いですっ」
「いいえ、任せてください。俺、嬉しかったんです」
「う、嬉しかったっ?」
「だって好きな人に頼ってもらえたんです。俺のことを必要としてくれてるのかなって笑顔にもなりますよ。だから颯さん、もっと俺に寄りかかってくださいね」
「あ、はは……」
諒大は心が広すぎる。
そういえば、日常生活をしていて諒大が声を荒げて怒るところなど見たことがない。この世に諒大を怒らせることができる人はいるのだろうか。
それからも颯は諒大に「あっちのお店が見たいです」とか「ランチは僕の独断で決めます」とか、我が儘を言った。その全部を諒大は「颯さんの好きなようにしましょう」と笑顔で難なくかわしてしまった。
(どうしよう。諒大さん全然怒ってくれないよ……)
もうすっかり夜になってしまった。このままではケンカをしないまま、いつもどおりの楽しいデートで終わってしまう。
「あの、すみません、駅ってどこにありますか?」
若い女性二人組が、諒大に道を尋ねてきた。諒大はにこやかに駅までの道を案内する。笑顔で話す諒大を見て、女性ふたりとも目がハートになっている。
(もう。あんなに親切にすることないのに。立ってるだけでモテるのに、あんなに優しくしたら好きになっちゃう)
諒大は何も悪くないのに、醜い感情がじわじわと心を占有していく。
こんなこと思ってはいけない。我慢、我慢……。
「どうしたんですか、そんな泣きそうな顔して」
「えっ?」
気がついたら、諒大は女性たちとの会話を終え、颯のところへ戻ってきていた。
「今日はたくさん我が儘を言ってくれたのに、こんなときだけは何も言ってくれないの?」
諒大は優しく颯の頬に触れてきた。
さっきまでの我が儘は、本心じゃなかった。
でも、今、諒大にぶつけたいのは、心からの我が儘だ。
「ほ、他の人にあんまりいい顔しないで……」
絞り出したような声で訴える。
「諒大さんを取られちゃうって不安になる……。諒大さんのこと、信じてないわけじゃないのに、すごく、嫌だ……」
思っていた不満を、全部諒大にぶつけてしまった。ただ道を教えただけなのに、責められたら諒大だって嫌だとわかっているのに、ひどい言いがかりだ。
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