60 / 227
落ちた花火──第60話
*
「──橘」
姫宮に手を伸ばされた。初めて。
「怪我は」
ないから、と掠れ声で呟いて、その手をやんわりと振り払う。
それ以上、無理に手を貸されることはなかった。
脱がされかけた下着を履き直し、泥に汚れた浴衣を着直す。
そこらへんにブン投げられていた学生手帳を財布に入れ直し、巾着へと戻す。
中に入れていた水ヨーヨーは、無事だった。
由奈と悠真たちは大丈夫だっただろうか。
俺がのろのろと身支度を整えている間、姫宮は何も言わなかった。
ただ俺を、じっと見ていた。
俺は、そんな彼の視線から逃げることで精一杯だった。
脱げかけた下駄と、土に汚れた自分の浴衣の裾が死ぬほどみっともなく思えた。
*
「あ、あー! いた、橘~」
「透愛!」
林を出て会場の方へ戻れば、駆けつけた瀬戸たちの姿が見えて安堵する。
「よかった……! 怪我はない!?」
「全然だいじょーぶだって。おまえは?」
「私はなにも。怪我なんて、一つも……透愛が、守ってくれたから」
「……そか、よかった。みんな呼んでくれてさんきゅーな」
涙目になって縋り付いてきた由奈の肩を、ぽんと叩く。
「橘、偉かったな! 子ども庇ったんだって? よ、正義のヒーローっ」
「バカにしてんなぁ? つか瀬戸、おまえらどこ探してたんだよ、来てくれると思ったのにさ」
「しょーがねぇじゃん見つからなかったんだから! 逆に俺が聞きたいっつの。おまえどこにいたの? 警察呼ぼうかと思ったわ」
「池の近く」
「あっちかー……反対側探してたわ」
「で、絡んできた野郎共はどうやって撃退したの」
「え?」
綾瀬にひょいと濡れたハンカチを渡されたので、「さんきゅ」とありがたく受け取って顔を拭く。
頬にも、土がついていたらしい。
地面に押さえつけられた時に付着したのだろう。
「4人組、怪我だらけで出てきたんだけど。来栖があいつらだっていうから声かけておまえの居場所聞き出そうとしたら、全員血相変えて逃げてった」
「あー……」
「も~な、恐怖に慄いてますって感じだったよな~」
「うん。おまえ浴衣ドロドロじゃん、相当派手な喧嘩した?」
「まぁ、喧嘩っつうか、なんつうか、その……ちょっとな~」
「ちょっとなってなんだよ」
「いや~はは……」
どう説明すればいいのかもごもご言い淀んでいると。
「──僕が駆け付けた頃には、全員やられていたよ」
遅れて林から出てきた姫宮が、後ろから声をかけてきた。
「えっそれ本当に? 透愛すごいね」
尊敬の眼差しで、キラキラと自分を見上げてくる由奈に視線が下がる。
今日は誰からも目を逸らしてばっかりだな、俺は。
「橘、細いけど腕っぷしは強そうだしなぁ」
「俊敏そうだし」
うんうん頷く友人たちに向かってあいまいに笑う。
「……うそうそ。ちげぇって、姫宮が助けてくれたんだよ」
女みたいに犯されそうになった俺を。
決して言葉にはできないそれを、口内の苦みと共に飲み込んだ。
口の中が、土っぽかった。
「姫宮くんが?」
「橘を?」
「え~優しい~!」
「なーんだ姫宮に助けてもらったんか、でも颯爽と助けたのが橘じゃなぁ」
「どーゆー意味だっつの」
「だってお前、姫宮にあれな態度ばっかとってんじゃん。ちゃんと感謝しろよ~? おまえもまぁ、頑張ったんじゃね?」
瀬戸にぽん、と慰めるように肩に手を置かれた。
「うっせ、どーせ姫宮が来るまでやられっぱだったよ俺は。でもお前よりはマシ、お前じゃ一秒でボコられて終わりです~」
「は? 当たり前だろ、ゴリゴリのヤンキー共にチビの俺が勝てるわけねぇじゃん!」
「うっわ開き直りやがった!」
「やかましい! 163cm舐めんな!」
「そうそう、あの手のタイプとやり合えるのって金パだけだし」
「いや金パ関係なくね??」
最後に綾瀬に髪色弄りをされたのでキレるフリをすれば、一気に笑いが起こった。
なるべく口角が震えないよう、俺も笑みを作る。
「はは……」
──大丈夫だ、俺はもういつも通りの顔ができている。
足の震えだって、誰にも気づかれてない。だから、大丈夫なんだ。
「おにいちゃんっ」
「おっと」
猛ダッシュで飛び込んできた小さな体を抱きとめてやれば、しがみ付かれた。
「う、ぇええ、おにいちゃん、おにいちゃんん……ッ」
「悠真……大丈夫だったか? 怪我は?」
「うんっ、うんんっ……」
「はは、なんだよおまえ鼻垂れてるぞ。ほら、ちーんだ、ちーん」
首に抱きつかれたので、後ろの花壇に腰をおろせば悠真がもぞもぞと乗り上げてきた。小さな背をぽんぽんあやしながら、ティッシュを鼻に押し付けてやればちゃんとちーんした。
向こう側では、凛花らしき少女が膝を抱えて座っている。
捺実からジュースを受け取ったり、背中を撫でられたりしている。見たところ擦り傷もなく元気そうだ。
悠真のへにゃへにゃの顔に、ようやく肩から力が抜けた。
二人とも、無事でよかった。
もしもこの子たちがあいつらに捕まっていたらと思うと、肝が冷えるどころではない……姫宮のこと、止めなきゃよかったかな。
「ごめんなぁ、俺が……」
カキ氷なんて買ってやらなければ、あんな奴らに絡まれて怖い思いなんてせずに済んだのに。
ひくひくとしゃくりあげている悠真が、ぶんぶんと首を振った。
「おれ、おれぇ、ね……?」
「うん」
「おにいちゃん、みたいに、カッコよく、なる……」
腹の奥からこみあげてきた、痛みにも似た感情に強く目をつぶる。
「たっ、助けてくれて、あり、ありが、とぉ……」
「……いいって。気にすんな、なんもなくてよかった」
それらを全て笑みに変えて、悠真の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわす。
俺と悠真の会話に周りの空気が緩んだ。
ひしひしと伝わってくる、微笑ましそうな視線が痛い。
結局、悠真は泣きっぱなしで、俺の膝に乗ったまま片時も離れようとしなかった。近所に住んでいるという親が迎えに来たことでようやく泣き止み、女子たちが手当をしてあげた凛花と一緒に帰っていった。
両親にはぺこぺこ頭を下げられ、こちらが恐縮してしまったくらいだった。
悠真と凛花のしっかりと繋がれた手が、網膜に強く強く、焼き付いた。
ともだちにシェアしよう!