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限界──第91話

 ふと、太田が真顔になった。 「なぁ、覚えてるか? 校外学習で俺が蛇に噛まれそうになった時、おまえ俺のこと助けてくれたじゃん」 「あー……あったなぁ、そんなこと」 「俺、怖くて漏らしたじゃん」 「はは、だっただった」 「んでさ、俺のこと指さして笑う奴らのこと、おまえうるさい! って怒ってくれて……服で隠してくれたよな。あん時から俺にとってのヒーローなんだぜ、おまえ」 「ヒーローって! 大げさだな。たまたま俺の近くに木の棒が落ちてたんだって」  ぶはっと笑う。これは本音だった。太田が、眩しそうに目を細めた。 「懐かしいなぁ。だから俺は、姫宮じゃなくて圧倒的橘派だったんだぜ?」 「……そか。さんきゅーな」  目を伏せて笑う。太田は目をぱちくりと瞬かせ、俺の顔を覗きこんできた。 「なんだよ」 「なんかおまえ、雰囲気変わった?」 「いや、おまえに言われたくねーし」 「そうじゃなくて、なんつーかこう……謎の色気でてんぞ?」 「はぁ?」 「よくみりゃ色白だし。どした、年上美女にでも搾り取られて生きてきたんか?」 「なんだよそれ、残念ながら彼女いたことねーわ」 「いや嘘つくなし」  きりのいいところで、太田の胸ポケットのスマホが震えた。 「あ、呼び出された。悪い、そろそろ行くわ。一応仕事中だし」 「おー、あんま飲み過ぎんなよ? 会えてよかった……あ、こーら、ここ路上喫煙禁止だかんな?」  笑いながら、ぽふ、と太田の背を叩く。  煙草の箱を取り出し、一本手に取って咥えようとしていた太田が、再び俺を凝視してくる。 「え、なに」 「いや……俺、けっこー変わったからさ。こう、アレな感じに」 「アレ?」 「怖い感じ?」 「そーか?」  確かに見た目は変わったが、中身はそのまんまだ。 「ガキん頃の知り合いに会っても、うわ~そっち行ったかみたいな顔されて避けられてさ。でもおまえ、雰囲気は違うけど、そういうとこなんも変わってなくて安心した」 「──え」 「あ、でもちゃんと食えよ? おまえ細すぎ、筋肉付けろ」  まさに、目から鱗。  ぽろっと、頑なに張り付いていたそれが落ちた。 「次、同窓会あったら顔出せよ? 皆おまえにさ、会いたがってンだわ」  招待状は頻繁に届くが、行ったことはなかった。  今の自分を、見られたくなくて。 「ま、そん時は姫宮にも声かけてくれよ。あいつも来たことねーんだ。おまえ、姫宮とあんま話さないっつってたけど、あいつさ、おまえが学校来なくなってからちょっと変だったんだぜ」 「へ、ん?」 「そ。口数少なくなってほとんど笑わなくなった」  笑わなくなったって……姫宮、が? 「あいつもおまえと同時期に一週間……もっとか? 忘れたけど、インフルかなんかで休んでたんだけどさ。学校に来るようになってもほとんど誰とも話さないし、休み時間はずーっと、おまえの机見てた」  過去を懐かしむ太田とは裏腹に、俺の胸は痛いぐらいに震えていた。 「おまえらって何かと比べられてたけど、あいつも寂しかったんだろーよ。おまえいなくなってから俺のクラス、火ィ消えたみたいだったしさ。いやー、卒業まできつかった。クラスの雰囲気最悪で」  俺は小学校が好きだった。  あのクラスが、好きだった。  だから事件のあとも通おうとした。そして退院してから初めて小学校に行ったその日に、大好きだった体育の授業で過呼吸に陥った。  透貴が危惧していた通り、例の用具室が視界に入ったことが原因だった。  結局登校できたのはその一日だけで、あとはずーっと、家で療養していた。  卒業式にも、出られなかった。  だから、俺が登校できなくなった後の姫宮の様子は知らない。でもきっとこれまで通りニコニコと笑いながら、取り巻き達に囲まれて、卒業までの半年間を過ごしていたのだと思っていたのだけれど。 「……そっか」  そうか。 「そっかぁ……」  そう、だったのか。 「ほれ、一本いるか? 餞別」  目の前に、すっと差し出された煙草。  きっぱりと首を横に振る。 「ありがと、な。でも俺、煙草──吸わねぇんだ。おまえに、託すわ」  酒も煙草も筋肉も、俺がこれからも選ばないものは、全て。  *  ガードレールに腰かけて、星の少ない夜の空を見上げる。  ぼんやりとした雲が多い、そういえば明日は雷雨を伴う局地的な豪雨が降るらしい。  俯き、ネオンの明かりに照らされた自分の腕をじっと見つめる。  柔らかなシルエットとはほど遠い、しっかりと筋張った男の腕だ。  けれども血管が浮き出るほどに色白で、ほっそりとしている。  逞しい太田のがっちりとした腕とは真逆だ。  だから俺は、自分が変わったのだとばかり思っていた。  姫宮を、恨んでるよ。犯されたことはやっぱり許せないよ。  それは、確かなんだ。  でも。  それなら。  憎しみ、は?  俺は姫宮を、憎んでいるのだろうか。

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