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限界──第92話

 *  生まれて初めて、朝帰りというやつをした。 「透愛……っ」 「ただいま、透貴」 「もう、びっくりしましたよ。急に二次会でカラオケに行くだなんて。おかえりなさい」  出張の予定がある透貴はまだ家にいて、いつも通り俺を出迎えてくれた。時間は午前9時。朝にしては遅いが、今日透貴は出張なので、家を出るまであと30分はある。  兄は既に、スーツに着替えていた。 「みんなと楽しめましたか?」 「うん」 「ふらふらじゃないですか、ちゃんと寝たんですか?」 「ううん、寝てない」 「もうっ、イマドキの子なんですから。講義、今日は4限目だけですよね? ちょっとでもいいから寝ていきなさい。睡眠は大事ですよ、成長期なんですから。あ、シャワーもちゃんと浴びていくこと。いい?」  透貴は、俺が普通の大学生のような振る舞いをすると、心配すると同時に嬉しそうな顔をする。俺が「今」を楽しめていることを、心から喜んでくれているのだ。  けれどもふっと、眼差しに影が帯びる。    あんなことがなければこの子はもっと幸せでいられたのに。  きっとそんなことを考えてくれているに違いない。  優しい優しい透貴。俺の家族。ずっと二人で、身を寄せ合うように生きてきた。  最初の数年は、5日ほどのヒート期間中、姫宮をこの家に迎えた。  慣れ親しんだ、安心できる環境の方が俺への負担が少ないと医者に勧められたからだ。けれども、 透貴が別室に控えている状態で姫宮とセックスをして、風呂場と自室を行ったり来たりするのも苦しかった。  特に透貴が辛そうで、辛そうで。  聞こえてくる俺の幼い喘ぎ声に、幼い子ども同士が体を重ね合う淫らな音に、気が狂いそうになっていたに違いない。  透貴の、俺に似た八重歯が欠け出したのはこの頃からだ。  だから2年目からは、姫宮邸で過ごすことにした。  彼の家の家政婦とも顔馴染みになったし、厨房で、プロの料理人に料理を教わったこともある。  透貴に、何か美味しいものを作ってあげたくて、一生懸命覚えた。  今は透貴がほとんどを作ってくれるが、俺だってこう見えても、料理はできるのだ。  それなのにここ1年で、透貴に言えないことが随分と増えた。昨日義隆と会った痕跡も、全てスマホから削除した。  透貴と俺の関係は変わり初めているのだろう。  義隆との関係も、変わった。  それなのに、姫宮との関係だけが変わらない。 「そろそろ出ますね。朝ご飯の残りはタッパーに入れておきましたから、お昼にでも食べてください。あ、夜はダメですよ? 最近暑くなってきたのですぐに駄目になっちゃいますから──透愛?」  仕事に行こうとした透貴のスーツの端を、きゅっと握る。 「もう、ふふ……いつまで経っても子どもみたいなんですから。どうかしましたか?」  嬉しそうに苦笑した透貴にやんわりと手を包み込まれて……その視線が俺の手首でぴたっと止まった。  姫宮に乱暴に掴まれたそこには、指の痕がしっかりと残っていた。 「透愛、この手は……」 「ごめん透貴。俺、ウソついた」 「え?」 「昨日、二次会なかった。カラオケにも行ってない。家に帰りたくなくて、ずっとぶらぶらしてた」  透貴の顔から、柔らかさが消えた。 「家に、帰りたくなかった……?」 「うん」 「え、ど、どうして?」 「昨日、義隆さんに会ったんだ」  ぐぐっと、スーツを掴んでいた手を離された。 「──透愛、携帯見せてください」  だからスマホな、なんて、お約束の返答の代わりに首を振る。 「ごめん、見せたくない」  透貴の目が、驚愕に見開かれた。  いつもだったら二つ返事で差し出していただろう。透貴を安心させてあげたいから。流石に友達との会話は覗かないけれど、透貴は毎回、その名前がメッセージアプリの上に来ていないか等を確認する。  透貴の大嫌いで大嫌いな、姫宮樹李の名を。 「……見せなさい」 「できない」 「なら答えてください。この手は、一体誰が?」 「……」 「透愛」  透貴の視線が今度は俺の首に移動した。ああ、そういえば首も絞められたんだっけ。自分からは見えないけれど、もしかしたら顎の辺りが赤くなっているのかもしれない。  大した力ではなかったので、薄っすらと。 「あなた首も、赤いんですけど……これは、なに。いったい、なにが」  とき、と掠れた声で、兄の名を呼ぶ。 「……飲み会に、姫宮も来た」  透貴の顔から笑みが完全に消えた。  怒りと、悲しみと、苦しみと、今にも溢れ返って爆発しそうなほどの、憎悪。  透貴ももう、限界だったのだろう。 「──のクソ野郎が!」  身を翻しかけた透貴を引き留める。 「離しなさい、透愛」 「イヤだ」 「私は今からあの男を殴りに行くんです。今度こそ、顔の原型が留めないくらいめちゃくちゃにしてやる……!」 「……透貴は、姫宮が嫌いか?」 「ええ嫌いです」  吐き捨てるような、それでいて地を這うような声でもあった。 「嫌いです。憎んでいます、大嫌いです。出来ることなら今すぐこの手で殺してやりたい」  姫宮も似たようなことを言っていた。俺を憎んでいると、死んでしまえと。  でも、彼のは透貴の中に渦巻く感情と、はたして同じものなのだろうか。  それをずっとずっと考えながら、ぬるい風が頬に当たる夜の街をさ迷っていた。 「あれは、あの男は:獣(ケダモノです」 「……じゃあ、義隆さんは?」  透貴の目が、見開かれる。 「姫宮が獣っていうんなら、義隆さんは透貴にとっての、獣か?」

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