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限界──第93話
「……あなたは、知らないから」
透貴の視線が、さ迷う。
「あなたは、知らないんです。あの子が、あの男が、どれほど……」
ふっと、透貴の肩から力が抜けた。
俺を見つめながら、どこか遠くを虚ろに見ている。
「知らないって何をだよ。なぁ透貴。あれは……事故だったんだ。不幸な事故。コドモの過ちだ。あいつだってわざとやったわけじゃない。むしろ俺が急に発情しちまったから、充てられてラット状態になっただけで」
「事故……事故ですって?」
透貴が、ここにはいない姫宮をせせら笑った。
「あれが、子どもの過ちなわけが、ありますか」
透貴の声が、静かな怒りに打ち震えている。
「知らないんですよ、あなたは。あの男があの時、なんて言ったのかを」
「あの時って、なに」
続きを長く言い淀む透貴の服を、引く。
俺の中では、パズルのピースがはまりかけていた。
やっぱり俺の知らないところで、透貴と姫宮には何かあるのだ。
『透貴さんの怒りはもっともだ。あの人は、僕をよく知っているからね』
姫宮のあのセリフが、長いこと棘のように引っ掛かっている。聞くに聞けなかったけれど、これで確信した。
透貴は俺の知らない姫宮の何かを知っている。
「言いたくないです」
「言ってくれ」
「嫌です。絶対に言いません」
俺の知らないあいつの感情の欠片を、俺はどうしても知りたいんだ。
「お願い、透貴……頼むよ。このままじゃダメだ。俺もう、18歳になったんだよ」
「あなたが傷つきます!」
「それでもいいっ」
少し、声を張り上げる。
「それでも、いいんだ……」
俺が引くつもりがないことを、透貴はようやく悟ってくれた。
「後悔、しませんか」
「しねぇよ。俺のことだろ? なら俺にも知る権利はあるはずだ」
20秒ほど待った。
「落ち着いて、聞けますか」
「……ん」
こくりと頷く。透貴の重い口が、ようやく開かれた。
「7年前、義隆があの子に聞いたんです。どうして透愛にあんなことをしたのかと……これは、これは俺に対する当てつけか、と」
──それは、俺も盗み聞きしていた二人の会話のことじゃないか?
「私は、二人が話しているのを聞いてしまった。もう、今後をどうするのか、義隆と話し終えた後です」
俺が怖くて逃げ出してしまった続きを、透貴は聞いていたのか。
「あの子……義隆に、なんて答えたと思います?」
透貴の頬が痙攣し始め、その顔が憤怒に歪み始める。
まさに鬼の形相だ。もう、俺の前で義隆のことを「さん」付けで呼ぶ気はないらしい。
「当てつけ、だって? そんなくだらないもののために……」
『当てつけだって? そんなくだらないもののために……』
兄の声が、脳内で勝手に、姫宮の声で再生されていく。
すうっと兄が──姫宮が──細く息を吸いこんで。
『僕は橘を手に入れたわけじゃない』
ああ、ああ──ああ。そうだったのか。
「そう言ったんですよ、あの子は、あの男は……ッ」
髪を振り乱して、テーブルに拳を叩きつける透貴。
そして俺の知っている姫宮ならば、きっと。
「そう言って、ッ、あいつは──わらったんですよ!!」
やっぱり。
これで、透貴が姫宮を苛烈に憎んでいる理由も、姫宮を事あるごとに「ケダモノ」と蔑んでいた理由もわかった。この7年間、俺のために絶対にこのことだけは言うまいと、胸の奥底にしまい込んでいたに違いない。
現に透貴は、忌々しさ極まりないとばかりに歯ぎしりをしている。
ギリギリ、ギリギリと、ああ……また透貴の八重歯が擦り減ってしまう。
俺のために、兄の歯が。
「もう、わかったでしょう……? 透愛、あれは恐ろしい子どもです、おぞましい男ですっ、あなたの前では、鋭利な牙を隠しているだけです!」
激しく肩を揺さぶられる。
「獣 なんですよ──透愛!」
目を覚ませと、言われている。
「うん」
深く頷く。
「うん、そうだな」
俺は、静かに涙を流しているらしかった。
「と……透愛、ごめんなさい、本当はね、まだ言うつもりなんてなかったんです。でも……!」
「違う。違うんだ透貴、ただ、おれは……俺、は」
溢れる涙を透貴に拭われる前に、そっと手を押し返す。
──なぁ姫宮。おまえ、バッカじゃねえの?
ふざけんな……ふざけんなよ。当てつけのために俺を手に入れたわけじゃないって、なんだよそれ。
あれは事故だったんだろ?
俺が勝手にヒートんなっておまえがそれに反応しちまっただけの話だろ?
おまえは俺のことが嫌いで、大嫌いで。それでも番になっちまったから仕方がなくセックスしてて、おまえは俺を見捨てられなくて、だから俺たちこんなに拗れまくってんだろ?
そうだろ、なぁ……違うのかよ。
違うのか、姫宮。
俺の見えないところで、いや、おまえが見せないように、この7年間ずっと隠し続けていた真実が、おまえの中にはあるのか? あるんだな?
それじゃあ、それは、あまりにも、あまりにも──
「姫宮らしすぎるって、泣いてんだ……」
滲む視界の向こう側に、姫宮の幻影を見た。
霞がかっていた過去が晴れていく。
今ようやく、思い出した。
運び込まれた病室の中。
どうしてこんなことにと、叫ぶ透貴の慟哭の向こうで、突っ立っていた姫宮。視界を横切る医者や看護師の人影はスローモーションのようにぶれていて、見える世界はモノクロで、姫宮だけが鮮明だった。
『ひめみや?』
声をかけると、姫宮は体を震わせて。
『こっちこいよ。そこ寒ィだろ? ここ、日があたってあったかいんだ』
細い腕を伸ばす。その瞬間耐えきれないとばかりに、その瞳が揺れて。
『なぁ、姫宮。俺さ、おまえと──』
その先の自分の言葉は、やっぱり記憶の端が途切れてしまう。
でも、あいつの表情だけは思い出せた。
そうだ、あの時、姫宮は泣いたんだった。
黒いビー玉みたいな目なのに、静かに溢れる涙がキラキラ光っているのが不思議で不思議で。
『おまえ、キレーだなぁ……』
舐めたら、一体どんな味がするんだろうって、思ったんだ。
目を、瞑る。
「あんまりにもあいつが、あいつらしすぎて、泣いてんだ……」
───────
確信犯でした。
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