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限界──第94話

「と、あ?」 「バッカだなぁ、あいつ……大事なことはなんも、言わないでさ」  もう一度、馬鹿野郎と心の中で強く吐き捨てる。 「ごめん、透貴。俺、姫宮が獣だってこと知ってる。知ってたんだ、でも……」  ひゅっと息を詰まらせた透貴が、縋るように俺の頬に触れてきた。  首を振って、大好きな兄のぬくもりから逃れる。 「でも俺、あいつのこと憎んでない」  自分で発したその一言は、すうっと胸に入ってきた。なんの穢れもない清涼な水のように。 「憎んでないんだ……憎んで、ない。俺、透貴と同じじゃない……ごめん」  透貴の腕が、力を失ったように落ちていく。 「それは、おかしいです」 「おかしくない」 「おかしいです。駄目です、そんなの認めません。あなたはあの男のことを、恨んでないのですか」 「恨んでるよ」 「なら!」 「──でも!」  透貴の言葉を、遮る。 「でも……っ、俺があいつを恨んでる、一番の理由は!」  何度も何度も膨れ上がりかけて、押さえつけていた感情がついに、弾けた。 「あいつが俺のこと、これっぽっちも見てくれないからだ……!」  ふらりと、透貴の身体が傾いた。  姫宮は俺を嫌っている、ずっとそう思っていた。罪悪感と責任感から俺の傍にいて俺を抱くのだと。だからこそ俺は、俺に微塵も興味を持ってくれない姫宮が恨めしかった。  心底、心底、恨めしかった。  でも、もしもそうじゃないのなら。  おまえが俺に対する感情を、静かな嵐の真ん中に巧妙に隠しているだけなのだとしたら。  もう恨む理由が、見つからない。  もう「好き」しか、残らない。  ああもう認める──認めるよ。姫宮が好きだ。  異性に好意を寄せられるたび、苦しかった。受け入れられないことが男として情けなかった。自分を恥じていた。けれどもそれ以上に、姫宮に抱く自分の想いを自覚するのが怖かった。  義隆の言っていた通りだ。俺、臆病になってた。 「俺、バカだ……今更、気付くなんて」  番を失った他のΩと同じように狂うのが怖い?  Ω性に抗えない?  だからあいつとは番関係を解消したくない? あいつを求めてしまう? あいつから離れられない?  馬鹿言えよ。  俺は純粋に、姫宮の傍にいたかったんだ。  姫宮が好きだから。  きっと俺は、こんな関係になる前から姫宮のことが気になっていた。だから話しかけた、友達になりたかった、姫宮の本当の笑顔が見たかった。  幼かった恋の芽はあの夏にぺちゃんこに踏み潰されて。  それなのに7年という歳月の中で、しっかりと育ってしまった。  今にも咲き乱れそうな蕾を、花開かないようぎゅっと押し込めても無理だった。  あの夜見上げた花火だって、導火線に火を付けられれば抗うまい。  俺ももう、抗えない。 「くそ……ひらいた。ひらいちまったよ……姫宮ァ……」  これが俺の限界だったのだ。  落ちて落ちて燃えカスとなっても、ずっと熱は燃え続けていた。  熱い想いが、俺の中には確かにあった。  もう、見て見ぬふりはできない。 「あつい……くそ、ちきしょう……」  胸の奥が、燃えるようだ。夏祭りの夜の比じゃ、ないぐらいに。  胸元をくしゃりと握り潰す。  ──俺、ホントのホントにバカだ。なにが、あいつに好きな奴でもできれば諦めもつくだ。全然、諦められてなんかなかったじゃん。  俺、あの美月って人に嫉妬してた。  いいなって羨んでた妬んでた。姫宮に愛されてって。なんで俺じゃないんだろうって。姫宮は俺の番なのに、俺たちは結婚だってしてるのに、あいつは俺の夫なのに、あいつが抱くのは俺だけのはずなのにって。  俺だけが、あいつに抱かれるはずなのにって。  いいな、いいなぁ……姫宮にこんなに想われて。  ずるいずるいずるい──ズルい。そんな卑しい単語の羅列ばかりが頭の中に浮かんでいた。  こんなにも、自分の心は醜いものだっただろうか。  最悪だ。自分の置かれた境遇に胡座をかいて、本当の気持ちから目を背けて見ないフリをしていた自分が。  自分の心を誤魔化し続けていた自分自身が。  最低そのものじゃねえか。 「あの男が、好きなんですか?」 「……」 「透愛、とあ……?」  透貴の声は、藁にも縋らんとばかりの弱々しさで、震えていた。 「わ、私は、あなたのことを愛しています、愛しているんです」 「俺も透貴のこと、愛してるよ」  心から言った。本当のことだからだ。  蒼白だった透貴の顔に、一瞬だけ赤みが戻った。 「ずっとずっと愛してる。ホントに、心から」  でも。 「俺──姫宮が好きだ」  透貴を見ながらきっぱりと言い切れば、透貴が口を押えて首を振った。 「ごめん透貴。あいつをブン殴るのは透貴じゃない、俺の役目だ」  もう声は震えない。  透貴の気持ちが痛いほどにわかる。だからこそ。 「だって姫宮は、あいつは俺の──番なんだから」  耐え切れないとばかりに玄関を飛び出して行った兄を、俺は追いかけなかった。

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