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姫宮 樹李──第108話

 オトナの男女にも、同年代の少年少女にも、それこそ生き物全般に興味がない。  僕の他には父親がいて、父親の取引先の人間がいて、あとはそれ以外という認識だ。  ただただ、橘のことだけが、頭から離れない。  彼は僕にとっての特別、生きる意味になっていた。  橘は今、何をしているんだろう。僕が君のことを考えながら自分を慰めている間、彼は一体、どこで何を。  ゲームでも、しているのかな。僕以外の男と。  ふと視界に入った、靴下のゴム口に書かれてあった「たちばな とあ」の文字。 「……とあ」  彼の名前を口にしたその瞬間、口の中が途方もないほどの甘さで痺れた。  蜂蜜漬けの塊が、喉の奥へとどろりと流れ込んでくるみたいに。  口の端から飲み込めなかった蜜が溢れ、ぞくぞくと体中の毛穴が膨れ上がる。 「あ……と、ぁ、とあっ──ふッ、ぅ……」  もう、止まらなかった。  彼の名前を心の中でも口でも連呼し、前かがみになりながら果てる。 「ん……ッ……っ、! は、は……ぁ、」  机に突っ伏し、しばらくそのまま荒い息をつき余韻に浸り続けた。  頭の中がぽーっとする。額を押し付けた橘の机は、自分の机よりも冷たく感じられた。  ぶるりと震え、木の板を睨みつけながら、僕はたった今、自覚した。 (ぼくは……僕は、橘が好きなんだ)  一度しか、まともに会話をしたことのない橘のことが。 (橘に、恋を、してるんだ……)  僕をキレイだと言ってくれた、僕よりも心がキレイな彼のことが。 (だから僕は、彼がほしいんだ……)  目をつぶる。  モノクロだった世界で、橘だけが鮮明に色づいて見えていた理由は、これだったんだ。  靴下を萎れたペニスから外す。  吐き出したばかりの白濁液がぬとっと伸びた。  すっかりぐちゃぐちゃになってしまった靴下に、茫然と、今まさに認めた感情をかみ砕いていると、近い位置からぺたぺたと足音が聞こえてきた。  しかも廊下ではなく、外廊下の方からだ。  一気に頭が冴える。  素早く身支度を整え、靴下と診断書を元通りにして机に突っ込んだ。床に置いていたランドセルを背負って教室の外へと飛び出し中の様子を伺っていると、施錠されていない大きな窓がガララっと開き、人が入ってきた。  驚いた、窓は必ず施錠されているはずなのに。  しかも、あろうことかカーテンをめくって教室内に入ってきた相手は── (たちばな……?)  つい先ほど想いを自覚したばかりの相手、橘だった。  一人でいるなんて珍しい。橘は周囲をきょろきょろと気にする素振りを見せると、普段の彼の姿からは想像もつかないほど慎重に、自分の机へと向かった。  そして中に手を突っ込んで、診断書を取り出した。  くしゃくしゃのそれを広げ、橘が俯く。  髪に隠れた横顔は見えないが、重いため息を吐いたのが上下した肩でわかった。 「……びょーいん、いこ」  少し開いた隙間から、聞こえてきたセリフ。 (あ──ああ、そうか。あの診断書は適当に丸めて忘れてたんじゃなくて、隠してたのか……)  バレないように、閉められていた窓のカギをこっそりと開けておいて、教室を後にしたのだ。  戻ってきた時に、外から簡単に侵入できるように。  誰にも、知られたくなくて。  そんな彼の秘密を、僕が暴いてしまったのだ──僕だけが。  陶酔にも近い優越感に浸っていると、下を向き手を動かしていた橘が、突然震え始めた。  胸を押さえながら、ふらふらと後ろのロッカーに背を預け、倒れ込む小さな身体。  これには驚いた。どうしたんだろう、あの苦しみようは普通じゃない。  もしかして、一刻を争う事態かも。  こればかりは仕方がないと、偶然を装い、急いで扉を開け放ち橘の元へ駆け寄る。 「──橘? ど、どうしたの、具合でも悪いの?」 「め、み……」  本当に辛そうだ。  彼の手を振り払ったあの日以来、一度も会話をしたことはなかったが、そんなの今はどうだっていい。  橘も、今は僕との間に巻き起こったいざこざなんて気にしてられなさそうだ。 「わ、かん、ねぇ。なんか、急に……くるしく、なって」 「そうか、とりあえず保健室にいこう」  ロッカーに寄り掛かりぐったりしている橘の肩を掴めば、「ひぃっ」と橘がか細い悲鳴を上げた。 「え?」 「さわ……ぁっ、んぅ」  橘の痙攣が激しくなった。  同時に、ぶわりと噎せ返るような芳香が鼻孔に突き刺さる。まるで頭から大量の花弁を浴びせられたみたいだった。まさに、花の滝。  橘も自分の身体の異常に気付いたのか、呆然と地面を凝視している。   「たち、ばな?」  その間にも橘の身体からは強烈な香りが立ち込めるばかりで──これは。

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