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姫宮 樹李──第109話
「……ッ、ご、め、どいて」
「っ、橘!」
「せ、んせ……よん、で、おねがい、ひめみや……っ」
よたよたと逃げる橘に手を伸ばそうとしたが、僕の方が駄目だった。
思考をどろりと覆い隠されそうなほどの強烈な芳香に眩暈がし、くらりと体が傾く。「ぐ……」とよろめき、ロッカーに手を突いて肩で息をした。
たまらず、口を手のひらで押さえる。
床の木目がぼやけるほど、目の前がチカチカ点滅していた。
僕の手も、さっきの橘と同じくらいに震えている。
「い、まの、は……」
なに、と呟く前に、僕の中で答えはすでに出ていた。
橘に肩に触れた手のひらから噴き出す汗。呼吸を繰り返すだけで、肺の奥まで沸騰したお湯を注がれるように熱くてたまらなくなる。
押さえ込むようにして、強く胸をかき毟る。痛いぐらいだった。
でもこれは、決して『痛み』じゃない。それとは似て非なるものだ、僕にはわかる。
──ともすれば意識をどこかに持っていかれそうになるほどの快感を、誘発されている。
ヒート、だ。
橘は急に、発情したんだ。
でもどうして、小学生で発情するだなんて聞いたことがない。
瞼から汗が滴り落ち、それを追いかけて視線が下がる。
橘の椅子の上にべたりと張り付いている靴下は、僕の体液に塗れていた……そういえば。
Ωは強い本能を持つαの体液の臭いに刺激を受け、発情することがある。
そんな話を聞いたことがあるような、ないような。
大まかなことは知っているけれど、Ωという存在に興味がなさ過ぎて知識に乏しい。
だから確証はないけれども。
──いや、だとしても、だ。今は原因を探っている場合じゃない。とにかく逃げた橘をなんとかしなければ。
いまだにふらつく頭をぶんぶんと振り、散乱した思考を一つにまとめる。
「職員室、行かなきゃ……誰か呼ばないと、橘を、病院……に」
橘も、先生を呼んで欲しいと言っていた。
僕が今するべきことは、まずは教員に事情を説明してから全員で逃げた橘を探しだし、見つけ次第、素早く病院に連れていってあげることだ。
なのだ、が。
はたと止まる──病院に行ったら、橘はどうなる?
僕は愕然とした。
未分化Ωは、Ωではない。あくまでΩ性も有するβだ。初めてのヒートを乗り切ってしまえば、薬の投与によってたった数か月で彼の中のΩ性は殺されてしまう。
つまり、僕が誰かに橘の状況を知らせれば、橘はこのままβとして成長することになるのだ。
同性同士の場合、βはαと結婚できないし、子どもだって孕めない。僕は、橘と一緒にはなれない。そもそも橘とは数回話したきりで、彼は僕のことなど気にも留めていないに違いない。
僕がどれだけ彼のことを想っていても、一度口汚く罵り、手酷く拒絶したのだ。
目ざわりだ、と。
あの時の橘が流した涙が、僕の痛みに満ちた感情と、混ざり合う。
橘は、僕のことが嫌いだろう。
死ぬまで僕と関わりたくもないかもしれない。
もう二度と、橘が僕に手を差し伸べてくれることは、ない。
せっかく、繋がれるチャンスができたのに。
このままじゃ僕は橘と、番えない。
そんなのはダメだ。ダメだ、ダメだ……嫌だ。
嫌だよ。
天秤が、軋む音が聞こえる。
ミシミシ、ミシミシと、軽くて重い橘が乗った秤が、ぴしりとひび割れる。
──10秒、迷った。
あまりにも長い長い、10秒間だった。
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