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姫宮 樹李──第110話
診断書。
濡れた靴下。
散乱したプリント。
そして、床に落ちていた彼のスマートフォン。
それら全てを彼のランドセルに突っ込み、肩にかけて立ち上がる。
なるべく音を立てないよう窓を閉め、しっかりと施錠した。
そしてズレた橘の机と椅子を元の位置に戻してから、教室を出る。
橘が逃げた方向はわかる。おいでおいでと、甘い香りが僕を手招きしてくれているから。
息を殺して、匂いを頼りに1Fまで降りていった。人の気配を感じれば、素早く物陰に隠れた。冷静に、しかし急いで、忍び足で誰の目にも入らぬよう下まで駆け降りることに成功し、そのまま体育館へと続く外廊下に出ようとしたところで、足が止まった。
緑のスニーカーが、ぽんぽんと脱ぎ捨てられていた。
どうやら橘は、ここで靴を脱いで外廊下を上ってきたらしい。
つまり彼は蝉の声が煩い雑木林を通り、校舎裏のヤブの中からフェンスを飛び超えて忍び込んだのだ。
秘密基地や道なき道を通るのが好きそうな、彼らしい。
つまり、だ。
橘が小学校に戻ってきたことは誰も知らない。
事情が事情だ、十中八九友人にも伝えていないだろう。
知る人間がいるとすれば、一人だけ。
これは確実に確認しておく必要がある。
タイミングが良かったのか、悪かったのか。肩から下げた橘のランドセルの中がぶぶっと震えた。
夏の日差しの陰となる白壁の下で、彼のスマホを取り出す。
子ども用のスマホだ。
ロック画面には、メッセージが届いたことを知らせる表示が出ていた。
【透愛、今どこですか?】
アイコンは、たぶん橘の幼い頃の写真だろう。
5、6歳頃だろうか、ほっぺがぷにぷにもちもちしていて可愛らしい。舌で舐って食べてしまいたいな。
けれども、僕が持っていない橘の写真を持っているこの男に舌打ちしかける。
会ったこともない相手だけれど、こいつは橘を生まれた時から知っている相手だ。
画面を睨みつける眼差しも、憎々し気なものとなってしまう。
橘のスマホのロックナンバーは、ちゃんと頭の中に控えていた。なぜなら、目を皿のようにして何度も盗み見たから。
これほど、自分の観察能力の高さと記憶力の良さに感謝したことはない。
15桁以上の数字を素早く打ち込み、さっさとメッセージアプリを開く。
ざっとスクロールして、これまでの会話を確認する。橘は、今日は彼とやり取りはしていないらしい。
全体的に見て、大した会話じゃない。毎日毎日たわいもないやり取りばかりだ。
何時に帰るとか、だれだれと遊んでくるとか、だれだれが何をしたとかしないとか。
これなら、真似るのも容易い。
いつも遊ぶ公園、よく出てくる名前、会話の流れ、使用頻度の高い漢字と低い文字、口癖。
それらを数秒でインプットし、会話を始める。
【いまから、春政と遊んでくるー】
ぽん、とスタンプ付きで送信すればすぐに既読になった。
仕事中だろうに随分と暇なことだ、しかし好都合でもあった。
【そうですか、何時頃に帰りますか?】
【しちじ前にはかえる、いま怪獣公園いくとこ! さっき金子がおならした、くさ】
橘に言われたことも、一字一句覚えていたことも幸いした。
その後もいくらかやり取りをし、疑われることなく完全に流れを自分のものにできた。
確信する。橘は、彼に自分の診断結果についてまだ伝えていない。
【わかりました。じゃあ私も仕事が終わり次第迎えに行きますね。夜、雨も降るそうですよ】
【わかった、さんきゅー! とき好き】
最後の一文は死ぬほど、死ぬほど入れたくなかったが、いつも通りのやり取りにするためには必要な文言だった。
【ええ、私もですよ。そうだ、今日の夕飯は手作りハンバーグですからね、楽しみにしてて】
【マジか! やった! もう腹へった~】
頬が引きつりかける。
なにがハンバーグだ、僕の家の専属シェフが作ったハンバーグの方が格別に美味しいに決まってる。
ぽしゅっぽしゅっとくだらない会話を続け、【じゃあまたね】【うん】という一文で会話が終わった。
もちろん最後に、【あっデビハン負けそう!】という一言も忘れずに。
これで、しばらく連絡が取れなくとも奇妙に思われない。
橘は、最近流行りの「デビルズハンター」とかいうゲームに熱中すると、LIMEを確認しなくなるらしい。
そのたびに、【こら、ちゃんと見なさい!】なんて兄には怒られていたみたいだ。
長押しで電源そのものを落とす。これで頼りのGPSも、無駄な機能となった。
僕と橘の間には、こんな電子機器いらないよね。
遠く遠くの方で、ごろごろと雷が鳴る。まるで僕の決断を、後押しするかのように。
これで、僕が今から行おうとしている残酷な行為の全てが、かき消される。
なんてことだ。
ああ──ああ、天も僕の味方をしてくれているだなんて。
「今行くよ、橘……」
君の元へ。
僕は心から笑った。
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透愛、逃げて(無理)
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