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姫宮 樹李──第111話
さてと。残るはこの靴だけだ。
橘が学校に戻って来た最後の痕跡をしっかりとシューズバックに戻し、隠した。
そのまま進んでいこうとしたのだが、左手の奥に小さく見えた『職員室』の表示板にも、足が止まった。
あそこには教員という名の人がいる。
──たぶんきっと、今なら後戻りできる。
けれども本能が喚くのだ。
橘を喰らえと。
あれはαと番うように出来ているΩだ。しかも恋焦がれ続けた相手。一体なにを迷うことがある、身体の奥の奥まで分け入り、思う存分己の精を注ぎ込み、あの白いうなじに歯を立てて。
橘透愛という人間を、僕だけのものにしろと。
タイミングよく、ぽろりと白い壁にへばりついていた蝉が足元に落ちてきた。
命がもう尽きかけているのだろう、儚い命だ。
僕の影の中で、ミンミン……ミン……ミン、と、最期の命の火を灯そうと羽を震わせる蝉が鳴く。
橘もきっと、僕を求めて鳴いている。
ここに僕がいることを、この蝉以外は誰も知らない……誰も。
知らせる気だってさらさら──ない!
この哀れな蝉が空を求めて飛び立つ前に、だんと踏み潰す。
ミチミチ、ポキポキ、くちゃり。
靴の裏が、完全に地面にくっついた。
「……はは」
これで、目撃者はゼロ。
ざりざりと石で靴裏の粘着質な残骸をこそぎ落とし、目を細くして笑う。
軋んでいた天秤が、橘という存在の重さに耐えきれずついに崩壊した。
利益とか不利益とか、そんなのもうどうだっていい。
この秤はもう、ただのガラクタだ。ひび割れた地面ごと、地の底まで落ちていく。
僕の中に残っているのは、薄い理性と強力な本能だけ。
薄暗く、広い体育館に侵入する。目指すはステージの隣の奥の方。重い扉をガラガラと開ければ、更に進んだ小部屋が半開きになっていた。
可愛い可愛いすすり泣きが聞こえてくる──あそこだ。
あそこに僕の獲物がいる。
まるで、ヘンゼルとグレーテルが落としたパンみたいだ。
橘は拾って食べながらも、それを辿って魔女に襲われそうになっている兄妹を助けにいくんだろうな。
でも僕はきっと彼らを助けない。
だって見ず知らずの兄妹なんてどうでもいい。
牢屋の中で勝手にくたばるか、魔女にでも食われればいい。
僕は上手く魔女に取り入って、橘に美味しいものをたっぷり与えてたらふく太らせて、スキをついて魔女を竈に突き落としてから、ゆっくりと時間をかけて、橘を食す。
空腹時に近い飢えで、喉がごきゅりと鳴った。
ここだよ、ここにいるよと、ぐずぐずに熟れた果実のようなΩの香りが、僕の中に辛うじて残っていた理性の欠片すらも、溶かしていく。
カチャリとドアノブを回せば、ぶわりと生温い匂いに出迎えられた。
甘くて美味しい僕の獲物が、ぷるぷる震えながらマットの上で体を丸めているのが見えた。
「──橘、みつけた」
後ろ手で、ぱたんと扉を閉めきる。
「ひめ、み、や……?」
涙に濡れた頬で、橘は希望に追いすがるように僕を見た。
その両腕は、どうぞしゃぶり尽くしてくださいと言わんばかりにだらんと垂れている。日に焼けた細い足は、ヒートの苦しみに可哀想なほどに痙攣している。
汗に濡れた茶けた髪がマットの上にべたりと張り付いて、口の端からはたらりと涎も溢れていた。
さっき、橘の靴下を食んでいた僕と同じように。
はふ、と甘ったるい息を零す橘の頬は赤く上気していて、艶めかしい。
虚ろに僕を見上げる橘の眼球でさえも、取り出して舐めしゃぶりたくてたまらない。
調理は済んでいる。もうどこを取っても美味しそうだ。
あとはもう、むしゃぶり尽くすだけ。
橘の全てが、僕を誘っていた。
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