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喧嘩──第113話

 手に入れたと、思ったんだ。確かに。  これからは橘と、ずっとずっと一緒にいられるって。  彼と二人で、生きていけるって。  でもそれは、僕の哀れな幻に過ぎなかった。  *  由奈に連絡を入れた。  これは姫宮と話す前にしなければいけないことだった。  昼頃に大学に向かえば、由奈はすでに待ち合わせ場所である長椅子に座っていた。 「由奈! 悪ィ、急に呼び出し……て……」  俺に気付いて顔を上げた由奈の表情に驚き、駆け寄る。 「どっどうした、具合悪いのか!?」 「……ううん、悪く、ないよ」 「じゃあなんで泣いてんだ。なんかあったのか?」  由奈は、その瞳から大粒の涙を流していた。  屈んで由奈の肩に手を置き顔を覗き込むと、由奈が俯いてしまった。目線が合わない。 「ひ……姫宮くんに、会ったの」  ひたりと忍び寄る、嫌な予感。 「──あいつに何言われた」  思った以上に低い声が出てしまったようで、由奈の肩がびくりと震えた。なんとなくだが、察しがついてしまう自分に嫌気がさす。  義隆が、姫宮は自暴自棄になっていると言っていた。  昨晩の居酒屋の件といい、あのチクチクと針を刺すような嫌味が由奈に向かったのかと思うと頭が痛くなってくる。 「透愛が……とあが、ね」 「うん」  しゃくりあげる由奈を根気強く待つ。  泣き腫らした目があまりにも痛々しくて苦しい。 (あいつ、由奈になに言いがったんだ……!) 「お、女の子、みたいだって」 「……女?」  意味がわからなくて眉を寄せる。あいつには俺が女に見えているのだろうか。いやそんなわけがない。由奈がぎゅうっと手を握りしめ、意を決したように顔を上げた。 「女の子みたいに、な……鳴くんだ、って……言ってたの」  その瞬間、指先まで冷水に浸されたように硬直した。 (なんだって? 女の子みたいに俺がなく……泣く?) 「透愛の、な……透愛の、身体は、女の子よりも、柔らかいんだよって……」  ──あ、違うわ。これ「泣く」の方じゃなくて「鳴く」だ。  ぶわりと、腹の底から激情が燃え狂う。 「……の、クソ野郎……ッ」  怒りで、目の前が暗くなりかけるってマジであるんだな。  俺のことをとやかく言われるのはいい。でも、無関係の人間を巻き込もうとするなら話は別だ。俺たちのいざこざは俺たちの問題であって、他人にぶつけていいものじゃない。  しかも、よりにもよって由奈を傷つけるような方法を選ぶなんて。 (そのやり方は違ぇだろ、姫宮……!)  しかもだ、下を向いた拍子に見えてしまった。  由奈のお気に入りの靴の先が、へこんでいる。しかも土や泥が付着していて、まるで何かを擦り付けられたみたいに見えた。  いつも、傷一つ、汚れ一つない可愛らしい小物で自身をまとっている由奈にしては珍しい。由奈は、そういうのを気にする子だから。  というか、由奈がこんな靴を外に履いてくることはまずありえない。  しかも片方だけが異様に汚れているだなんて……まさか。 「……由奈。もしかしてだけどさ……この靴、踏まれたりしたか?」  どうして、と目を見開いた由奈の表情を見て、確信した。  ──あいつ、やりやがったな。キレると足が出る男であることは、わかっていたけれど。  あの夏祭りの男たち、そして由奈。同じなのか? おまえにとって、この、一人で泣いていた由奈は。  ダメだ、怒りを通り越して呆れとか諸々の感情のせいで頭が痛くなってきた。  勢い余って立ち上がれば、由奈にしがみ付かれた。 「透愛、待って」 「……巻き込んじまってごめんな。本当に、ごめん……」  でもこうなったのは、俺がちゃんと姫宮と向き合ってこなかったからだ。  俺のせいだ。 「由奈ごめん。俺、おまえとは付き合えない」  一文字に引き結ばれた由奈の唇。言われることを察していたような表情に見えた。 「理由は……ごめん。俺弱くて、まだ言えない」  由奈にだけは、本当のことを話してもいい気がする。でもそれで由奈が傷付いたらと思うと、一歩が踏み出せない。由奈の俺への好意は公だった。「Ωの男に恋をしていた」なんて噂を立てられて、由奈が侮蔑の対象になってしまったら……違う、これはいいわけだ。  俺はこの期に及んでまだバレたくないんだ。  ──ホント、クソ野郎だな俺は。姫宮のこと、言えねぇじゃん。 「俺、散々おまえに思わせぶりな態度取ってきたよな。マジで最低だった。友達に戻ってほしいなんて、烏滸がましいことは言わねぇよ。酷いことばっかりして、本当にごめん」  頭を下げる。  これはこんな俺に好意を持ってくれた由奈に対しての、精一杯の謝罪だった。 「……どうして、透愛が謝るの?」 「全面的に俺が悪いだろ。詰ってくれてもいい、殴ってくれてもいいんだ……本当に、ごめ」 「──バカにしないで!」  はっと顔を上げれば、由奈に強く睨まれていた。 「透愛は優しいけど、悪いところだってあるね。全部全部、自分のせいだって本気で思っちゃうところ!」 「ゆ……な」  ここまでの剣幕で怒る由奈は、初めて見た。

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