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喧嘩──第114話

「違うのにっ……違うんだよ? 世界はね、全部透愛一人で完結してるわけじゃないんだよ?」  目を、瞬かせる。 「私を受け入れられないことを申し訳ないだなんて思わないで。私の感情まで、そうやって背負おうとしないでよっ」 「あ……」 『そういうとこなんも変わってなくて安心した』  それは昨夜、太田に言われたことと同じぐらいの衝撃だった。 「透愛。ちゃんと周りを見て? 私が透愛のこと、殴るような人間だと思うの?」 「思わない」  即答する。ゆるゆると首を振った。本当に、昨日から目の鱗が落ちてばかりいる。 「……思わねぇよ」  由奈がようやく、「でしょう?」と笑ってくれた。 「透愛が好きな私の感情は、私だけのものだよ」 「……うん、そうだな」  そうだったな。 「私はね、透愛のことが好きだから、透愛には幸せになって欲しいなって思ってるんだよ……?」  顔が歪む。ここでようやく俺は、自分の独りよがりを恥じた。 『それを続けているといつか潰れてしまうぞ、君も、周囲も』  義隆が俺に伝えたかったのは、こういうことだったのだ。 「言ったでしょ? 私、透愛のことわかってるって。断られるだろうなってわかってた。身勝手なのは私の方だよ、透愛の重荷になるってわかってたのに、やっぱり背負わせちゃったんだもん」  由奈が自分自身に言い聞かせるように、涙を拭った。 「今日で、この気持ちを終わらせられたらいいなって思ってたの。泣いてたのはね、自分の心に折り合いをつけてたからなんだよ……だから、ねぇ透愛。教えてくれない……?」  涙に濡れた唇は苦しげに震えているが、先ほどよりもしっかりした口調で、由奈は言った。 「透愛の好きな人って、だれ……?」  俺は一体どんな顔で、由奈からの問いかけを受け止めたのだろう。  由奈の目が、ゆっくりと丸くなっていく。俺を見て、驚いている。なぜだろうか。 「……その、顔」 「え」 「その顔がね……好きだったの」 「俺の、顔?」 「うん。そっか、今わかった。そっか、そうだったんだぁ……私が惹かれた透愛は、あの人のことが好きな透愛、だったんだねぇ」  今度は、俺が目を見張る番だった。  最初から勝ち目なんて、なかったな。目を伏せた由奈が、囁くように続けた。由奈の目から、ころりと一粒の雫が零れ落ちる。  ──どうして俺は、こんなに優しくて芯のあるいい子に、滅多にないほどの好意を持ってもらえたっていうのに。  女性相手にも容赦をしない、あのクソ野郎のことしか浮かんでこないんだろう。 『橘』  って、傲慢で無礼な態度で俺を呼びつける、あの男の顔が。 「ねぇ、透愛。好きな人に、ちゃんと好きって言えたの?」  ふるふると首を横に振る。  まだ言えていない。言えなかったからこそ、ここまで酷い状況になってしまった。 「そっかぁ……じゃあ、伝えなきゃだね」  そうだな。ちゃんと言わなきゃな。 「──よしっ」  涙を振り切るように由奈が立ち上がった。勢いに驚いているとぐいっと肩と背中を押され、くるりと前を向かされる。振り向こうとして、「こっち見ないで、お願い」と鼻声で懇願されて止めた。 「もうね、この際だから告げ口しちゃおっかな。あの人ね、泣きそうな顔してたんだよ?」  明るく冗談めかしてはいるが、どれほど由奈が気丈に振舞ってくれているのかは、背中越しに伝わる震える手のひらからわかる。 「透愛のこと取っちゃヤダ~って、もう酷い顔しててね。ふふ、なんだか子どもみたいだったなぁ。あとね、私のこと嬲り殺してやりたいんだって! ヤバすぎるよね、もう」  それには心から頷ける。  透貴や、由奈の言葉を否定はしない。 「……ああ、ヤベえな。あいつ、頭おかしーんだ」  姫宮は、おぞましい男なのだろう。 「なんで、あんな奴……俺、マジで趣味悪ィ……」  それなのに俺は、今すぐあいつの傍に行きたくてたまらない。  そんな風に思っちまう俺も、大概頭がおかしいのかな。 「違うよ、透愛。恋ってね、そういうものなんだよ。ダメだってわかってても想いが止まらないの。溢れちゃうの……」  トンと、背中を軽く押された。 「でもね、透愛ならきっと大丈夫だよ」  強い力ではなかったけれど、一歩だけ進む。 「頑張っていってきて! 次は、いい報告聞かせてね?」  振り返って謝りたくなる気持ちを押さえて、目をつぶり、深く深呼吸する。  そして一気に駆けだした。  ごめんでも、悪かったでもなく。  俺が今、由奈に言うべき言葉は、一つだけだ。 「──由奈、ありがとな」

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