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喧嘩──第116話
*
「おまえ、煙草吸うの?」
「……うん」
あれはいつの頃だったか。
姫宮は同年代の奴らに比べても早くに煙草を吸い始めた。もちろん未成年なので立派に違法である。
だから、自宅で隠れて吸っているようだった。
朝方だった。深夜までのヒート期間中の乱れた情交が終わり、泥のように眠り、寒さに目が覚めた。
もそりとベッドから身を起せば、開け放たれた姫宮邸の欄干に寄り掛かりながら、姫宮は紫煙を燻らせていた。
太陽の光を乱反射して灰色っぽく見える白くて広いバルコニー。
風にたなびく白いカーテン。ラフに羽織っただけの白いシャツ。
姫宮の口元で、ぽっと灯る小さな赤。
目に入ってくる情報の全てが眩しくて目を眇めた。
「なんで?」
純粋に疑問だった。そんな見るからに身体に悪そうなものを好んで吸うようなタイプには見えなかったから。「必要ないだろう」とか言ってさ。
姫宮は、半裸のままシーツにくるまり横たわる俺をちらりと一瞥すると、すぐに視線を青い空に戻した。
「……口寂しいから」
そう零して、姫宮はまた煙草を咥えて煙を燻らせ始めた。なかなか様になってはいるが、まだ手つきはぎこちない。
つまり吸い始めたのは最近なのだろう。
「君は?」
「なに言ってんだ、吸わねぇよ」
シーツを蹴って、ごろりと姫宮から背を向ける。
「吸えるわけねぇじゃん……俺が」
喘ぎ続け、からからに掠れた声でそんなことを言うのは、自分でも意地悪だったなと思う。姫宮は、「そうだね」と言ったっきり、再び俺に声をかけてくることはなかった。
モヤモヤした。
今なら、どうして姫宮の返答が癪に障ったのかがわかる。
──口寂しいなら、俺の口を吸えばいいのに。
そう言ってやりたかったんだ、俺は。
どうしてあの時、気づかなかったんだろう。
*
雲の背がうんと高くて、底のあたりが黒々としている。
今にも、空が声を上げて泣きだしそうだ。
【おまえ今どこにいる】
初めて奴にメッセージを送った。青い背景のトーク覧に、ぽん、と雲みたいな吹き出しが浮かぶ。
秒で既読になったが返信は無し。電話にも出ないときたものだ。つか、電源切ってやがんな。
(あの野郎、逃げるつもりかよ)
──最近、ずっと考えていたことがあった。
もしも俺がΩにならずに普通のβとして成長していたら、今頃どうなってたんだろうって。
中学、高校ではサッカー部のキャプテンをしたり。
大学ではインカレサークルに入って、スポーツイベントではしゃいだり。
クラブに通って飲み歩いて、そこで知り合った女の子と恋をしたり。
好きだと告げてくれた由奈を、抱きしめたりしてたのかなって。
実際俺は、身も心も男なのだろう。自分とは違う小さな体に好意を抱き、触れた異性の肌の柔らかさに心地良さを覚え、まろやかな女性本来の匂いに一瞬ドキッとしてしまうような。
だからこそ無意識の内に、女子の前では殊更男らしく振舞っていた気がする。
でも、今更たらればを考えたって意味がない。
太田の健康的な肌が眩しかったのは、羨望じゃない。
本来ならあったかもしれない未来を思い描いて、それでもあれは俺が選ばなかった未来なのだと、深く納得したのだ。
だって、もう俺は、出会ってしまったのだから。
何度だって言う。我ながら趣味が悪いと思うよ。
だってあいつ、俺のことボロクソに言うんだもん。
無神経極まりない男、心底イライラする、馬鹿じゃないのか、注意力散漫、不快、クソださい、そして極めつけは、一生苦しめそれか死ねである。
酷いなんてもんじゃない。
──でも僕は、君を負け犬だとは思わない。弱い人間だとは思わない。
──格好悪いとも、思わない。
汗を掻きながら駆けつけてくれた姫宮の背中は、温かかった。
それなのにあいつは、肝心な時にいつも俺から逃げてしまう。
こそこそ俺の周りを嗅ぎまわって近づいてくるくせに、言うだけ言ってトンズラだ。
しかも最後っ屁みたいに由奈にまで最低なことを吐き捨てやがって。
本当に陰湿というか……あれだ、面倒臭い男だ。
それが一番しっくりくる。
でも、面倒臭い性格なのは俺も同じだ。この年になるまで自分と向き合ってこなかったのだから。
『……相手が大切であればあるほど、人は怖がるな』
そうだね、義隆さん。俺、怖かった。
共に暮らしていた透貴にさえ、話せないことが沢山あったんだ。年に数回会うだけの、しかもセックスをするためだけに顔を合わせる男ときちんと話し合わないで、一体何を伝えられるっていうんだ。
身体だけ繋がったって、意味がない。
『君は樹李と喧嘩したことはあるか?』
ないよ。
だから今から、しにいくよ。
だってきっと俺たちは、そっからなんだ。
なぁ姫宮、知ってるか? 俺の気持ちは、7年前から何一つ変わってねぇんだぜ。
俺が手を伸ばしたいと思う相手は。
俺が、この手を取って欲しいと願い続けている相手は。
昔も今もこれからも、この世でたった一人だけなんだ。
正直に言うと、姫宮の気持ちは未だにわからないことだらけだ。もしかしたら俺の予想とは大きく外れていて、受け入れてもらえないかもしれない。
伸ばした手を、また振り払われてしまうかもしれない。
そんなことを考えると、やっぱり足が竦みそうになる。回れ右をして、逃げ出したくなる。
でも俺は、落ちた花火の燃え殻を拾った。捨てられなかった。
なら、おまえが捨てたがっている俺への感情って、なんだ?
俺はもうわかっているのかもしれない。
でもこれはきちんと、本人の口から聞かなければならないことだ。
もしも姫宮にとって、あの夏が過ぎ去った遠い過去ではないのなら。まだ姫宮の中に、あの日の嵐が存在しているのだとしたら。
『嵐の中心は、静寂さ』
渦巻く嵐の中心に、あいつが一人、孤独に突っ立っているだけなのだとしたら。
俺はそこに飛び込みたいんだ。
たとえそのせいで鋭い風に、切り刻まれることになったとしても。
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