128 / 227
喧嘩──第128話
そんなか細さじゃ、雨音のせいで満足に聞きとれやしない。俺にしか、聞こえない。
だから何一つ取り零すまいと耳を澄ませる。
「……一瞬、職員室が、奥に見えた。でも僕は行き先を変えなかった。君を追いかけた先で何が起こるのかを、僕は知っていた。知っていた、はずなのに」
姫宮は、息をするのも苦しそうだった。
「知っていて僕は、本能で理性をねじ伏せた。自らの意思で、獣になることを選んだ」
姫宮が、ふと横を向いた。
「──君の性を引きずり出したのは僕だ」
眉間にシワが寄る。
「それは違ぇだろ。あれは、俺が急に」
「違う、僕のせいだ。僕が原因だ」
姫宮の頬が引き攣った。笑みを浮かべようとして失敗したらしい。世界の全てをかき消すような雨を眺めながら、何を思い出しているのだろう。
「君の机の中を漁っていたら、診断書を見つけた……君がそうだと知って、すごく嬉しかった……ああ、そうだった。嬉しくて、天にも昇るような気持ちで胸が震えて、感激して……そのまま……僕、は」
姫宮が深く深く、深呼吸をした。
「その場で……自慰を、した」
目を瞬かせる。流石に聞き返してしまった。
「じ、い?」
じいってなんだ、じいって……爺? 辞意、侍医、いや自慰? 姫宮が自慰をしたって、その場でって……は? 俺の机、で?
──こいつが自慰?
「君の靴下」
姫宮はそれ以上言わなかったが、ようやく目が開けたように思い出した。
そういえば、持ち帰るのを忘れていた靴下に謎の何かが付着していた。なんだこれって怪訝に思ってニオイを嗅いで、うわ変なニオイって顔を顰めて。
次の瞬間、俺の身体は、言うことを全く聞かなくなったんだ。
「わかるだろう……僕の体液は、ヒートを誘発させる」
青臭い唾が、どろっとなだれ込んでくる。
声も出ない俺を、姫宮は憐れむように見上げた。
「故意じゃない。君が教室に戻って来るなんて考えもしていなかった……いや、違うな。言い訳だ。僕はその状況を利用した。利用して君を手に入れた。君のスマホの電源を消したのは僕だよ。君の居場所がバレないようにって……はは……酷いだろう、僕は。あの男たちと何が違う? 僕は……何も違わない」
どうしておまえがそんな顔をしているんだ。
まるで体中を刃で切り刻まれているような、そんな顔を。
「僕は過ちを、犯した。僕は……僕は──間違った」
瞠目する。
「君はあんな形で、手に入れていいような人じゃ、なかったんだ……」
なんだよ、間違ったって、そういう意味かよ。
姫宮が震える手を持ち上げて、押し付けるように顔を覆った。
姫宮のよく通る低い声が、よりいっそうくぐもる。
「可哀想にね……橘。君は運が悪かったんだよ。僕なんかに目を付けられたせいで……そうだ、そうだよ、やっと手に入れたんだ、あの日僕は、君の全部を奪ってやったんだ。別に、心が伴っていなくともよかった……君が、焦がれ続けた君がやっと手に入ったんだから……それなのにどうして──どうして君は僕を、見ない……?」
突如として姫宮が、唸った。
「いッ……!」
突然うなじに爪を立てられ、後頭部ごと引き寄せられた。
「──こんなの!! こんなのッ……なんの意味もないじゃないか……ッ」
喚きたてた姫宮にぐるりと体勢を変えられ、再び俺が押し倒される。静かだったはずなのに再び始まった乱闘に、次は何が起きるんだとびくびくしていた周囲が、「また始まった!」とばかりに蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「ズルい、ズルい! あの女、あの女……あの女!!」
姫宮はヒステリックに叫びながら、俺の首に手を巻き付けてきた。
「僕は理由がなければ君に触れられないのに、君に、言うこともできないのに、あの女は簡単に、君に触れられるっ! 友達? 友達!? 誰がなるかそんなもの!」
それはまさに、鬼の形相だった。
こいつに首を絞められるのはもう何度目だろう。
もう、慣れてきちまったな。慣れていいことじゃねぇけど。
「憎いっ……君が、憎いよ……心の底から憎くて憎くて、たまらないッ! 苦しめよ、僕に苦しめ……死ぬまで苦しめ、いっそ死ねよ、死ね……死ねよっ死んでしまえっ、死ねばいい!」
姫宮の口は、もはや壊れた呪詛の蛇口だった。
「君の爪先から頭の先までぜんぶ僕のだ! 君は僕のだ、僕のモノなのにッ……!」
絶叫という水が、どんどんどんどん噴き出してくる。
少し、懐かしささえも覚えた。
そうだったな、こんな感じだったわ。
苛烈で、爆発的で、俺の全てを奪いたがっている、この目。
『あれは恐ろしい子どもです、おぞましい男ですっ、あなたの前では、鋭利な牙を隠しているだけです!』
透貴の悲鳴と姫宮の慟哭が、重なる。
『獣なんですよ──透愛!』
うん、そうだな透貴。こいつは。
「僕のものにならないのなら──今この場で君を殺してやる!」
正真正銘の、猛獣だ。
────────────────
大雨の中でも聞こえてる人はそこそこいそうです。
ともだちにシェアしよう!