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喧嘩──第128話

 そんなか細さじゃ、雨音のせいで満足に聞きとれやしない。俺にしか、聞こえない。  だから何一つ取り零すまいと耳を澄ませる。 「……一瞬、職員室が、奥に見えた。でも僕は行き先を変えなかった。君を追いかけた先で何が起こるのかを、僕は知っていた。知っていた、はずなのに」  姫宮は、息をするのも苦しそうだった。 「知っていて僕は、本能で理性をねじ伏せた。自らの意思で、獣になることを選んだ」  姫宮が、ふと横を向いた。 「──君の性を引きずり出したのは僕だ」  眉間にシワが寄る。 「それは違ぇだろ。あれは、俺が急に」 「違う、僕のせいだ。僕が原因だ」  姫宮の頬が引き攣った。笑みを浮かべようとして失敗したらしい。世界の全てをかき消すような雨を眺めながら、何を思い出しているのだろう。 「君の机の中を漁っていたら、診断書を見つけた……君がだと知って、すごく嬉しかった……ああ、そうだった。嬉しくて、天にも昇るような気持ちで胸が震えて、感激して……そのまま……僕、は」  姫宮が深く深く、深呼吸をした。 「その場で……自慰を、した」  目を瞬かせる。流石に聞き返してしまった。 「じ、い?」  じいってなんだ、じいって……爺? 辞意、侍医、いや自慰? 姫宮が自慰をしたって、その場でって……は? 俺の机、で?  ──こいつが自慰? 「君の靴下」  姫宮はそれ以上言わなかったが、ようやく目が開けたように思い出した。  そういえば、持ち帰るのを忘れていた靴下に謎の何かが付着していた。なんだこれって怪訝に思ってニオイを嗅いで、うわ変なニオイって顔を顰めて。  次の瞬間、俺の身体は、言うことを全く聞かなくなったんだ。 「わかるだろう……僕の体液は、ヒートを誘発させる」  青臭い唾が、どろっとなだれ込んでくる。  声も出ない俺を、姫宮は憐れむように見上げた。 「故意じゃない。君が教室に戻って来るなんて考えもしていなかった……いや、違うな。言い訳だ。僕はその状況を利用した。利用して君を手に入れた。君のスマホの電源を消したのは僕だよ。君の居場所がバレないようにって……はは……酷いだろう、僕は。あの男たちと何が違う? 僕は……何も違わない」  どうしておまえがそんな顔をしているんだ。  まるで体中を刃で切り刻まれているような、そんな顔を。 「僕は過ちを、犯した。僕は……僕は──間違った」  瞠目する。 「君はあんな形で、手に入れていいような人じゃ、なかったんだ……」  なんだよ、間違ったって、そういう意味かよ。  姫宮が震える手を持ち上げて、押し付けるように顔を覆った。  姫宮のよく通る低い声が、よりいっそうくぐもる。 「可哀想にね……橘。君は運が悪かったんだよ。僕なんかに目を付けられたせいで……そうだ、そうだよ、やっと手に入れたんだ、あの日僕は、君の全部を奪ってやったんだ。別に、心が伴っていなくともよかった……君が、焦がれ続けた君がやっと手に入ったんだから……それなのにどうして──どうして君は僕を、見ない……?」  突如として姫宮が、唸った。 「いッ……!」  突然うなじに爪を立てられ、後頭部ごと引き寄せられた。 「──こんなの!! こんなのッ……なんの意味もないじゃないか……ッ」  喚きたてた姫宮にぐるりと体勢を変えられ、再び俺が押し倒される。静かだったはずなのに再び始まった乱闘に、次は何が起きるんだとびくびくしていた周囲が、「また始まった!」とばかりに蜘蛛の子を散らすように逃げていく。 「ズルい、ズルい! あの女、あの女……あの女!!」  姫宮はヒステリックに叫びながら、俺の首に手を巻き付けてきた。 「僕は理由がなければ君に触れられないのに、君に、言うこともできないのに、あの女は簡単に、君に触れられるっ! 友達? 友達!? 誰がなるかそんなもの!」  それはまさに、鬼の形相だった。  こいつに首を絞められるのはもう何度目だろう。  もう、慣れてきちまったな。慣れていいことじゃねぇけど。 「憎いっ……君が、憎いよ……心の底から憎くて憎くて、たまらないッ! 苦しめよ、僕に苦しめ……死ぬまで苦しめ、いっそ死ねよ、死ね……死ねよっ死んでしまえっ、死ねばいい!」  姫宮の口は、もはや壊れた呪詛の蛇口だった。 「君の爪先から頭の先までぜんぶ僕のだ! 君は僕のだ、僕のモノなのにッ……!」  絶叫という水が、どんどんどんどん噴き出してくる。  少し、懐かしささえも覚えた。  そうだったな、こんな感じだったわ。  苛烈で、爆発的で、俺の全てを奪いたがっている、この目。 『あれは恐ろしい子どもです、おぞましい男ですっ、あなたの前では、鋭利な牙を隠しているだけです!』  透貴の悲鳴と姫宮の慟哭が、重なる。 『獣なんですよ──透愛!』  うん、そうだな透貴。こいつは。 「僕のものにならないのなら──今この場で君を殺してやる!」  正真正銘の、猛獣だ。    ────────────────  大雨の中でも聞こえてる人はそこそこいそうです。

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