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喧嘩──第129話

「それが、おまえの本音かよ……」  姫宮の顔が、ぐしゃりと泣きだしそうに歪む。  ああもう、眉目秀麗、文武両道、温厚堅実を絵に描いたような美青年が、台無しだ。 「ずっとずっと、それを、隠してたのかよ」  俺の前で見せるスカした面の下に、7年間も? 「君に、出会ったせいで僕は……おかしくなった」  首に巻き付いている指が、緩んだ。最初から、あまり力は入ってなかった。本当は力を込めたくてしょうがないのに、それだけはするまいと必死に抑え込んで、震えているようだった。 「僕はこんな人間じゃ、なかったのに。君のせいでめちゃくちゃだ……僕だって、戻れるものなら戻りたいよ……君を知らなかったあの頃に。だって、どんどん、おかしくなるんだ。嫌いだよ、君なんか。図々しくて無神経で、頭も悪い。考え足らずで、軽々しく人の心を踏み荒らす。僕の嫌いなところが全部詰まってる人間なのに……なのに、どうして」  姫宮が、俺の肩で項垂れた。 「君しか、見えない……!」  首筋が熱い。じんわりと沁み込んでくる濡れた感覚に目をつぶる。 「君がいる限り、僕は……希望を、捨てきれない……!」  外は豪雨。姫宮の口は壊れた水道の蛇口、目からはとめどなく溢れる雫。 「君が、僕が零してしまった感情を、いつか拾ってくれるんじゃないかって」  水だらけだ。 「どうしてもそう願わずには、いられない……っ」  地獄の業火みたいな男なのに。  外の雨は相変わらずで、室内も随分と薄暗くなっている。 「……っとに、おまえ、歪すぎだろ……」  広い肩にそっと手を添えれば、断罪を待っていたかのようにひくりと震えた。 「ばぁか、なんでおまえがびびってんだよ」  綺麗な黒髪をゆったりと撫でつけてやれば、姫宮がおっかなびっくり顔を上げた。  やっぱり泣いていた。手を伸ばして、垂れた黒髪を耳にかけてやる。  こうすると、姫宮の顔がよく見えた。 「泣き虫。おまえ俺の前で、泣いてばっかじゃん……」  姫宮が、そろそろと自分の頬を虚ろに撫でた。どうやら今、自分が泣いていたことに気づいたらしい。  よく見ると、姫宮の親指の爪の先が、欠けていた。 「おまえ、爪割れてる……また噛んじまったのか?」  頬に残るひっかき傷ごと、手のひらでそうっと、彼の指と頬を包みこむ。  ゆらゆら揺れていた焦点が俺に定まった。わかったのだろう、愛おし気に触れられたことが。  ああ──ああ、夜が溶けそうだ。 「……なぁ、俺がこういう服着てんの、おまえのためだって知ってるか?」  姫宮の口が半開きになり、まさに、ぽかんという顔をした。  それがより一層幼く見えて、ふふ、と笑ってしまう。  今目の前にいるのは、小学6年生の頃の姫宮だ。  でも今の姫宮でもある。  散々遠回りしまくって、俺ら、バカみてぇ。 「髪を染めたのだって、おまえの傍にいたかったからなんだぜ」  Ωでもなく。ただの「俺」として、いつか堂々とおまえの隣に立ちたいなって。 「あーあ……あーあ! どうしよ、俺、変なんかな。どう考えたっておまえ、ヤべぇ奴なのにさ」  これが嵐か。  おまえの、嵐か。  初めて触れた姫宮の剥き出しの心は、吹き荒れる炎のような嵐だった。  何度だって思う。犯されたことは許せないよ。恨んでるよ。でも、あれがただの事故などではなく、コドモの過ちでもなく。  姫宮が、俺を狂おしいほどに求めた結果なのだとしたら、俺は。  ──俺は。 「うれしい」  ぞくりと胸の奥で膨れ上がる熱は、昨日感じたものと同じだった。  姫宮に痛みにも似た感情をぶつけられるたび、ぞわぞわと込み上げていた熱の正体が、今わかった。  そうだ。昨日、俺は怯えからこいつの手を振り払ったんじゃない。  自覚したら全てが終わりだと思って、拒絶したのだ。  あの時、俺は確かに。 「すっげぇ、うれしいや……」  姫宮に求められることに喜びを感じていた。  俺、やっぱり変だ。おかしい。さっきまでこいつに首絞められて、殺してやる! なんて喚き立てられたっていうのに。  どうしてこんなに、姫宮を愛おしく思うんだろう。  姫宮が俺だけを見つめているという事実が、泣きたくなるくらい、嬉しい。  背中がぞわぞわするぐらい。  なんだよって思う。自分自身に。  俺、こいつのことすっげえ好きじゃん。  こんなに好きだったんだ。そっかァ。  もっと早くに気づいときゃよかったな。  これ以上ないほどに大きく見開かれた姫宮の目から、数滴の雫がぽとぽとと頬に垂れてくる。  キラキラと透明なそれが床に落ちてしまうのがもったいなくて、頭を持ち上げて目尻に唇を押しつけて、吸ってやった。  姫宮の半開きになった口があまりにも間抜けで、目を細める。  ずっと舐めてみたかった。  ああ、7年越しの夢が、ついに叶っちまったな。 「はは……あま」  姫宮の涙は水っぽくて、ほんのり甘かった。  ゆっくりと上体を起こす。姫宮はずっと、呆けているみたいだった。俺の言ってることわかってんのかな。つか聞こえてんのかな。聞こえてはいるか、だからこんな顔してんのか。  これ以上ないほどに大きく見開かれた黒い瞳には、心からとろけるような表情で姫宮を見つめ続けている、自分が映り込んでいた。 「おまえってやっぱり、すっげぇ、キレ──……」  ドンッと、何かが持ち上がる大きな音。  尋常じゃなく、地面が揺れた。

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