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喧嘩──第130話

 *  あの嵐の日。  姫宮にヤラれたありとあらゆる行為は、ほとんど覚えていた。思い出したくないから、記憶の底に沈めているだけで。  それほど強烈だったのだ。泣き叫ぶ俺を、あいつが容赦なくレイプしてきたことは。  絶頂しても絶頂しても、終わらない責め苦。ぐるりと白目を何度も剥いた。  出されて、出して。もう出るものもなくなって、カラカラに干からびた身体。  それでも俺にのしかかって、ガツガツと腰を振り続けるあいつ。  αとしてΩの俺を貪り尽くそうとする姫宮は、恐ろしかった。  恐怖は、助かった後もしばらく続いた。  病院で臥せっていた頃が、一番記憶が薄い……というか霞んでいる。  窓の外に浮かぶ空も、伸びる何本もの木々も、あんなにカラフルだった世界が、いつのまにか白と黒で出来ていて、自分は一体どこにいるんだと毎日頭がおかしくなりそうだった。  しかも、だ。どこからともなく現れる、闇一色でできたみたいな小さい化け物が、俺に近づいてこようとしてくるのだ。  嫌だ、首を絞められたくない。噛まれたくない。殴られたくない。手足を縛りつけられたくない。飲みたくない。酷いこと、されたくない。  痛いことも気持ちいいこともされたくない。  ──強姦、されたくない。  怖くて怖くて、ずっと逃げた。  どこへ逃げたっけ。病室の隅だったり、ベッドの上を這ったりベッドの下に隠れようとしたり、病室から飛び出したこともあったっけ。  早く自分の家に帰りたくてたまらなかった。  だってあそこは安全だ。あの黒い化け物が来ない。  屋根を切り裂くような雷の大きな音も、グラスで揺れる些細な水音も怖かった。シャワーなんてもってのほかで、透貴にタオルで毎晩身体を拭かれる日々が続いた。  透貴に抱きしめられて子守歌を歌ってもらっている時だけ、まともに息が吸えた。  事件から長らくこの感覚と付き合っているので、今では突発的に苦しいのが起きても、「あーまた来たな」ぐらいで、どこか冷静に俯瞰することだって慣れたものだが、ガキの頃はきつくてきつくて。  これはいわゆる、PTSDというやつらしい。  定期的にホルモン薬とか抗不安薬とかを処方してくれるΩ専門医のクリニックの先生曰く、「続くよ」とのことだった。  続くよという、たった一言の重さ。  俺がどこか、他人事のように冷静に自分の身に起きた症状を確認できていたのも、解離、という病気の一つらしい。  続いた。確かに。今でも、時々。  でも──でも。 『イキ顔みせて。もっと、もっと。ああ、キレイだね……』  でもあいつは俺のことを、キレイだって言ったんだ。 『僕の可愛い透愛。これからはずっと一緒だよ……』  俺のことを可愛いって、ずっと、ずっと言っていたんだ。俺はあいつから与えられた痛みの記憶に苛まれて苦しみながらも、あいつの言葉を必死に思い出してもいた。  だって、今の姫宮はもう俺に、「キレイ」だとも「可愛い」とも言ってくれないから。  透愛って、俺のことを一度も名前で呼んでくれないから。  ──バカみたいだ。あんなに恐ろしかった出来事を、自分の心の慰めのために何度も思い返しているなんて。  でも、やめられなかった。  姫宮に、またキレイだって言ってほしい。可愛いって言ってほしい。名前で、呼んで欲しい。  俺もおまえのことを、名前で呼びたい。  ずっとずっと、そう願っていた。  だって恐怖の象徴だと思っていたあの小さくて黒い化け物は、ただの姫宮だったのだ。  それに気づけたのは、夕暮れの病室で彼を見た時。  寒そうな場所で立ち尽くす姫宮に、ああ、おまえだったんじゃんって、つい手が伸びた。 『姫宮……俺さ、おまえと──仲直り、したかったんだ……』    今更、脳裏に蘇った自分の言葉。  そうか、俺は泣いたあいつに向かって、そんなことを言ったのか。 『なぁ、おまえの、こと、名前で呼んでも……いい?』  まず、肌色が見えた。姫宮の肌の色だ。  黒色も見えた。姫宮の髪だ。俺と違ってさらさらでいつでも櫛が通りやすそうだ。  それに、夜に近い瞳の色。  次に、赤色が見えた。ぎゅっときつくきつく閉じられて、歯が噛み切られたそこから血が出ちまうんじゃねぇかって不安になった、姫宮の唇の色。  そして色白の頬を溢れる、透明すぎる涙。  この世に存在する色が全て、姫宮に凝縮されているみたいな。  あれだけ白黒にしか見えなかった世界が、この瞬間、一気に鮮やかなものへと変わった。  透貴に「愛している」を繰り返されても、成しえなかったことだ。  久々に蝉の声を聞いた気がする。  夏の終わりを告げるそれは、カナカナ……カナカナと、か細く、糸のように、姫宮と俺の距離を繋いだ。  気が付いたら、夕暮れの夏の世界が、俺の周りに存在していた。  青白い顔で突っ立ったまま俺を見つめる姫宮を、起点にして。 『おまえ、キレーだなぁ……』  でもそのあと、急激にすっげぇ眠くなったんだっけ。  瞼が異様な重さに強制的に下げられて、耐えきれずに閉じちゃったんだ。まだ姫宮のことを見ていたかったのに……たぶん薬の影響だったのかな。  ぽやぽやした思考の中で、手に、何か柔らかいものが触れた気がした。  しかもおそるおそる、壊れ物を扱うみたいに、きゅっと指を握られる。 「いい、よ……」  そんで、震える声が落ちてきて。 「いいよ、透愛……」  頭がぐらんぐらん、うとうとしながら、こいつ誰だろって思って。  俺のこと名前で呼ぶのは一人しかいないから、透貴が部屋に戻って来てくれたのかなって思って。 「ん……」  でもきゅっと握り返してみたら、驚いたようにその指は硬直したから。しかも俺と同じで、短くて丸っこくて、細いけれど子どもみたいな指だったから。  もしかしたらこれ透貴じゃなくて──姫宮の手、なんじゃねぇかなって。  そう、思ったんだ。  なぁんだ。  これももっと早くに、思い出しときゃよかったな。

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