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一人じゃない──第135話

「いえ、この人は違います。すみません」 「姫宮は今、どうなってますか……」  男性が驚きに目を見張った。青白い顔でぼうっと突っ立っている俺はさながらで幽霊みたいだったのだろう。  男性が、俺を刺激しないようにだろうか、静かに首を振った。 「ええと、その件でお話しなければならないことがありまして、ご家族の方を探しているんです」 「なら仕方ないですね。姫宮くんのご家族が来たら、私が、その件お伝えしておきますから」 「は、はぁ、お願いします……?」 「橘くんほら、座りましょう?」   女子に座るよう促されるが、俺は硬直したまま男性を凝視していた。  正確には、男性の口の横を。 「あのぅ、どうかされましたか?」  唇の右横に、ホクロがあった。姫宮とは反対側の位置に。 「……っ、う」 「え──あっ、その! お友達の方ですよね? お話したいのは山々なのですが、申し訳ありませんご家族でないと」  急にぼろぼろ泣き始めた俺に、男性が申し訳なさそうに手を振った。  俺よりも背の低い中肉中背のこの人は、姫宮には似ても似つかない。でも、ホクロがある。たったそれだけで感情が決壊した。  凍り付いていた姫宮への想いが、溢れてくる。 「が、う……違うん、です」  そうだ。姫宮の家族は義隆さんと……俺だ。俺なのに、なんで彼女作れとか、由奈が好きなのかとか、捺実とお似合いだとか応援してるとか、姫宮を苦しめるようなことばかり言っちゃったんだろう。  きっと凄く、傷つけた。  このまま会えなくなったら、もう謝ることさえできないのに。  バケツをひっくり返すようだった雨音が、途端に静まり返る。  しとしとと、雨ではなく、今度は遠くの方から日の光を運んでくる。 「違うんで、す。おれ……」  局地的な雨は止みそうなのに、その下で姫宮はまだ苦しんでいるだなんて。  姫宮……お願いだから、おいていかないで。  俺を、おまえのものにする前に、消えちゃわないで。  だって俺は、おまえの。 「おれ、家族、です」 「はい?」 「俺、あいつの、姫宮の、家族なんです……」  痛みに呻く声やら囁き声がちらほらと上がっていた広いロビーが、数秒、静かになる。 「……なに言ってるの?」 「ええと、御兄弟か親戚の方ですか?」 「ちが」 「違いますよこの人は!」  女に腕を強く引かれる。それを止めてくれたのは他でもない医療関係者の男性だった。 「すみません。いま私はこの方にお話聞いているので、ちょっと静かにしてくださいね」  一刀両断された女子が押し黙る。  それでも堪えきれず声を詰まらせ続ける俺に、ゆっくりでいいですよ、と男性は言ってくれた。 「俺、は……おれ、は、あいつの」  今更こんなことを言っても、姫宮には伝わらないかもしれないけど。 「妻、です」 「──え?」 「姫宮樹李の、妻、です……いや、夫……どっちで言えばいいか、わかんねぇんだけど……」  でも確か、婚姻届けは『妻』の欄に名前を書いた気がする。俺は、そちら側の扱いなのだ。でも今はもう、そんなのどうだっていいか。  一言一言、しょっぱい涙と共に噛み締める。 「妻の、たちば……」  違う、俺は。 「姫宮、です。おれは姫宮、透愛です──俺たち、夫婦なんです……結婚、してるんです」  今の日本では同性婚は認められていない。ただし例外がある。 「Ωの方、ですか?」 「はい。俺、姫宮の番です」  それは、番であるα男性とΩ男性の結婚だ。  男性は2秒ほど戸惑った様子を見せたが、流石はプロだ。直ぐに切り替えた。 「お手数ですが、夫婦関係や番関係を証明するものはお持ちですか?」 「証明……」  働かない頭で考える。  俺と姫宮の身分を証明するものは、車輪に潰されてぐちゃぐちゃだ。他には何が──ああそうだ、あった。簡単に証明できるものが。  大事に大事に、常に、身に着けていたのだから。  あれほど強く掴んできていた女の手は、腕を軽く上げただけで簡単に振りほどくことができた。後ろ髪を分けて、首から提げているネックレスを外した。  チェーンから引き抜いた金色の輪を、ころんと男性の手に乗せる。  病院の照明でチカッと眩く光った。  これを渡された時、本当は嬉しくて、毎晩手に持って眺めていた。  右から上から下から左から、ありとあらゆる角度で。  勇気なくて、薬指に嵌めることは終ぞできなかったけれど。 「これ、俺と姫宮の結婚指環、です。裏に、結婚証明番号と番関係証明番号が彫られてるんで、照合、してください……お願いします」  姫宮のはたぶん、事故現場で吹っ飛んでどこかに転がっているのだろう。探す余裕もなかった。  というか、今の今まで存在自体忘れていた。  姫宮のことしか、頭になくて。  男性は俺と指環を交互に見たが、しっかりと頷いてくれた。 「はい。ではお預かりいたしますね。大事なものをありがとうございます。おかけになってお待ちください」  後ろを振り向けば、俺と男性の会話を聞いていた姫宮の取り巻きたちが波のように引いていった。みんなどんな顔をしているのか。  驚いているのか、唖然としているのか、引き気味なのかもわからない。  全員の顔がモノクロで、酷くぼやけて見える。  姫宮がいないだけで、世界はこんなになるんだ。  これも、初めて知った。  ふらふらと、受付に近い長椅子に腰かける。  誰も俺の側には寄ってこない、座らない。辺りは静かだった。  祈るように手を組み、額に押し付ける。  あの時と同じだ。  あの夜、外は嵐で俺は姫宮によって流れた赤にまみれていた。口から、鼻から、下から流れる血は、痛くて痛くて。  でも7年前と違うのは、今は俺ではなく、俺の代わりに姫宮が赤に染まってしまっていることだ。  バカ野郎、バカ野郎──バカ野郎。  ──なぁ、姫宮。わかってんのかよ。おまえがいなきゃ、俺はこれからもずっと、痛いまんまなんだぞ。  深く、深く項垂れて。  俺は苦すぎる唇の血の味を、噛みしめた。

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