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一人じゃない──第142話

「そう言われると思いました。でも大丈夫ですよ、ほとんど義隆から毟り取ったようなものですから」 「……へ? それどういう意味?」  もしかして恐喝して巻き上げたとか? なんだか尻に敷かれてる感じもしたし、あり得るかもしれない。 「私、義隆の秘書になったんです」  しかし透貴の返答は予想の斜め上を行きすぎていて、ぽかんとした。ひしょ、避暑って──秘書? 「ええっ、ま、前の仕事は?」 「辞めました」 「うっそぉ……」  寝耳に水だ。そういえば今日も義隆と透貴は連れ立って病院に来た。 「もしかして、最近出張多かったのってそれ?」 「ええ。そのうち……義隆と、暮らすようになると思います」  更に、耳に追い水が。透貴が、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。 「──お舅さんとの同居じゃあ、透愛も胃がキリキリするでしょう?」  その一言に色々なものが詰まっている気がして、胸がいっぱいになった。 「透貴……」 「だから受け取ってください。いずれ独り立ちするあなたに、私がしてあげられることをしたいんです」  今日はずっと、泣いてばかりだ。透貴の手に押し返された通帳を、再び受け取る。  手のひらに、ずしんと重い。透貴の想いのぶんだけ、重量を感じる。  透貴には、迷惑をかけてばかりだ。透貴がこの7年間で、あの(あの)義隆と関係を築いてくれたからこそ、俺も義隆と今のように話せるようになったのだから。  あと残るは、姫宮本人だけだ。  こればかりは、誰にも頼らず、自分でやらなければいけないことだ。 「いいですか? 透愛。あなたはこれから死ぬまで、彼と離れることはできないんです。だから、彼とは常に、対等でありなさい」 「……うん、うん」 「まぁ、私が言うまでもないでしょうけどね……でもまだあなたは大学一年生です。あなたが卒業するまでは、もう少し一緒にいましょうね。まだまだウサギエプロン姿でお弁当作らせてください」 「血濡れの?」 「やだな。あなたに何事もなければ血には濡れませんよ。特攻服も封印したままです。樹李くん次第ですね」  ふはっと声に出して笑えば、透貴に涙を拭われた。 「なぁなぁ、俺な、透貴より背、伸びたんだよ」 「ええ、そうみたいですね。今も目線が一緒です」 「腰の位置も高くなったんだ」 「それはどうでしょう。私の方がやや高いやも……」 「いや俺だろ」 「いえ私です」  くすくすと笑うと、透貴が眩しいものを見るように目を細めた。  俺のことを、心から愛おしいと思ってくれている顔だ。 「大きく、なったんですね……」 「うん。俺、大きくなったんだよ」 「こんなに小さかったのになぁ。あの頃は、吐き戻しも多かったのに。透愛は粉ミルクが嫌いで」 「いやいや、それはさすがに小さすぎじゃねぇ? 手のひらサイズじゃん、俺ハムスターかよ」 「ハムスターみたいなものでしたよ。立ったまま壁に寄り掛かって寝たり、いないってパニックになったらテーブルの下で腹丸出しで寝扱けていたり」 「え、そんなんだったの?」 「そんなんだったんです。ハイハイ状態でも回転するハムスターみたいにごろごろ転がって大変だったのに、ちょっと歩けるようになったらも~ちょこまかといろんなところに飛び出していって……なんでも口に突っ込むんですもん。私の金属バットは食いもんじゃねぇっての。煙草を戸棚から漁ってがーって口に放り込もうとしていた時は肝が冷えました。それで私、一切捨てたんですよ、煙草。一秒たりとも目が離せませんでした」 「やべぇじゃん……」 「昔から、あなたはやばかったんですぅ」 「でも俺のおかげで健康なってよかったな」 「もう」 「長生きしてほしーもん」  調子にのらないの、と頬を突つかれた。  ズボッと結構指が食い込んで口内がへこんだ。そうだそうだ、透貴は時々力加減を誤ることがあった。 「覚えてますか? あなたが7歳のころ、誕生日に水族館に行った時……」 「あ、懐かし~、あったあった、透貴が水かからないっていわれたとこに座ったのにイルカショーでズブ濡れんなってブチ切れてな」  てめぇこの海豚! って言ってたな……うん、結構片鱗あったわ。 「あなたはお目当てのお土産が売り切れで買えなくて、ギャン泣きしてましたよ」 「うえ、なんで覚えてんのぉ?」 「忘れるわけがないでしょう? だから私が、イルカの絵本を書店から取り寄せて買ってあげたんです」 「うん、そうだったな……そうだった」  小さい頃、透貴はよく寝る前に絵本を読んでくれた。でも今は絵本ではなくこうして思い出話をしてくれる。懐かしんでくれる。  いつの頃からか、俺は絵本ではなくゲームに熱中するようになっていた。でも透貴はそんな俺にも付き合ってくれた。  電子機器、苦手なのに。  未来へ、未来へ。  お互いに補い合いながら、知らず知らずのうちにお互いが前を向いていたのだろう。  俺も透貴も、ずっとそれに気付かなかった。  いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。  今の関係が崩れてしまうのが怖くて。

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