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一人じゃない──第144話

 * 「お疲れ様だったね、透貴さん」 「義隆……」  子どもの頃から変わらない、あどけない顔で眠った弟を起こさぬよう静かに病室を出た。 「先に言っておくが、私は殴り合いをしなさいとは言っていないよ」 「何をいまさら。けしかけたくせに……透愛にも病室を、ありがとうございました。素敵な部屋ですね」 「大した部屋じゃない。樹李が目覚めた時、そばに透愛くんがいなければ発狂するだろうからな。病院内を徘徊するかもしれん」  あり得ることだ。 「それに7年前、いい部屋を選んであげられなかったからね。むしろ今から挽回させてもらえて感謝しているよ」 「そんなことをしなくても、あなたは透愛に好かれていますよ」 「もちろんそれは嬉しいが、私は君に好かれたい」  またそんなことを……といなそうとしたが、やめた。  壁に寄りかかって待っていた義隆に肩を抱かれて、大人しく身を委ねる。  ほんのり煙草の香りが漂うスーツに額を押し付ければ、透愛の前ではずっと堪えていた涙が、溢れた。 「……私、ずっと透愛を、縛り付けていたんですね」 「透愛くんは、優し過ぎる子だからな」  ゆったりと肩を撫でられて、安堵している自分がいる。  義隆は、弟を苦しめた男の父親。蛙の子は蛙で、蛙の親も蛙。傲慢で冷酷で性悪なクソ野郎。  最初は憎くて憎くてしょうがなくて、息子の代わりにこの男を、段ボールの中にしまっていた金属バットをひっくり返して、血だるまになるまで殴り殺してやろうとさえ思っていたのに。  そんな男の手を、この7年という短くない間で、いつしか温かく感じるようになってしまった。 「私はちゃんと、子離れできたでんでしょうか……」  手が、今更になって震える。昔したお礼参りの時も、これほどまでに緊張はしなかった。ノーヘルでバイクにまたがっていた時もだ。  透愛に対する裏切りだと、離れようとしたことも何度かあった。  でもあの子は全てわかっていたのだ。透愛は、そういう子だ。 「ああ、完璧だったよ」 「嬉しそうですね、ムカつきます」 「透貴さんに好きだと言われたのは、初めてだったからな」 「ちゃんと聞いてたか? 言ってねぇわ……盗み聞きしてたくせに」  げしっと足を蹴る。 「おお怖い、漆黒に舞う暗黒竜殿には叶わないな」 「漆黒の夜空に舞う暗黒竜ですよ。ちぎっていいですか?」  もちろん、今度は頬を抓ってやった。 「痛い痛い」 「あの、さっき変なこと言ってましたよね」 「なに?」 「樹李くんが、透愛を庇ったわけじゃないって……あれってどういう意味ですか?」 「なんだ、透貴さん、君もまだまだ樹李を知らないな」 「知るわけがないでしょう」 「義理の父親だろう? 考えればわかることさ。第一、動体視力が異常にいいあれが、あの状態で透愛くんを腕にかき抱く行為がおかしいんだ。怪我をしない程度に突き飛ばして自分は下がればよかったものを……それができるのにしなかった。しない判断を、樹李は咄嗟にとった。あれは、きっと……」 「はい」 「……知らない方がいいかもしれんな」 「言ってください」 「じゃあ、好きだと言ってくれたら言おうかな」 「い、い、ま、せ、ん」 「はは、やっぱり透愛くんは君の弟だな」 「え?」 「樹李の顔を見たかい?」  義隆が、肩を震わせて柔らかく笑った。 「君にボコボコにされた時の、昔の私と全く同じ状態になっていて笑えたぞ」 「……あの子も腕力はある方だと思ってました。自分では気づいてなかったみたいですけどね」 「これからは、夫婦喧嘩のたびに流血沙汰、死屍累々だろうな。私の見立て通りだった……やはり惚れた相手にブン殴られるという宿命も似ているんだな、我々は。樹李も寝てはいるが、目は覚めただろうさ」  顎を撫でながら、あの時の出来事に腹を立てるでもなく、そんなに落ち着き払った表情で。 「これであの子らも一歩、進めたろう?」  高い位置から、しかし高圧的ではなく、自分に優しく微笑んでくるこの男も本当に変わったものだ。  自然と、強張っていた頬も綻んでしまった。 「──じゃあ今度は、私たちが一歩、進む番ですね?」  不意を突かれると数秒固まり、ぱちぱちと瞬きを繰り返す仕草は、やはり義理の息子のそれと、よく似ていた。  ────────────────  義隆→インテリ少年から輩系男性に。透貴→不良少年から敬語系男性に。  この二人の間に身体の関係はありません。まだ。  次の更新からついに、姫宮視点のお話の後篇(別名:樹李の樹李による樹李のための橘ストーカー日記)が始まります。  少し長くなりますが、どうぞよろしくお願いいたします~

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