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痛み──第145話

   これは、「君を守りたい」だなんて、普遍的で高尚な感情とは程遠い。  だって、君の吐いた息は空気にだって溶かしてやらないもの。  君の最期の吐息は、僕がもらうんだ。  *  橘とはお互い、頭の中がぐちゃぐちゃになっていたあの日の出来事について話したことはない。  いつしかその話題を避けることが、僕らの間に流れる暗黙のルールになっていた。  橘も、思い出したくなさそうだったから。  1年目。  橘の小麦色だった肌はどんどん白くなって、足の筋肉も削げ落ちた。  彼は大好きなサッカーが出来なくなって、所属していたチームも辞めた。  橘は笑わなくなった。いや、笑いはするがそれは不自然に硬かった。遠く離れた中学校に通うことになった彼の様子はわからないけれど、ヒート期間中に顔を合わせると、いつもぼうっと窓の外を見ていた。  儚さなんて単語、無縁の子だったのに。  それでも、自分が出すフェロモンに乱れ、体の疼きに抗えず、番である僕を求めて腰を振る姿は煽情的だった。  どんな始まりであれ、どんな形であれ、橘を抱けることは僕にとっての幸福だった。  最初の頃、橘はよく行為中に正気を失った。  溌剌としていた彼が、弱々しく震え、ひゅうひゅうと喉をかき毟る姿が可哀想だった。  けれでも発情の苦しみから逃れるために、彼は僕と身体を繋げなければならない。それをしなければ、橘は自分から枕にでものしかかって一人で延々と腰を振る。  自身の性器をめちゃくちゃに扱き、爪を立てて抉る。  硬いどこかに押し付けて擦り続ける。  どろどろになった膣に、指や目に入った異物を無造作に突っ込んで、どれほど傷付こうがお構いなしに、かゆい、かゆい、かゆいよぉ……いれてぇ、とかき回す。  最終的には血が出てしまうこともあったぐらいだ。  それも、僕が傍で見ていようが……たとえ、兄がその姿を見て、ショックで口を押えていようが。風呂場で、股を開いて泣きながらシャワーのホースを突っ込んで、刺激に恍惚ともだえる橘の光景に、彼の兄は暗い部屋で涙を流していた。  橘の理性は溶け、イキたい、出したい、足りないよぅと涎を垂らしては、哀れに番を求めた。  僕のを奥の奥まで挿入しないと、治まらないほどの、熱。  検査結果の通り、橘のΩとしての本能はそれほどまでに強いものだった。 『あの、待って……、まって……ひめみ、や』  それでも、震える手で、そっと肩を押される。  ──酷く怖いから待ってほしいの、合図。  気が狂いそうになるほどに身体が欲している番相手との快感と、肝心の相手に抱いてしまう、同じくらいの、いやそれ以上の怯え。  声が掠れ、息がし辛そうな彼に、「優しくする」と根気強く囁き、宥め、丁寧に抱いた。  その都度、やんわりと唇を塞いでやると、橘は少しばかり落ち着いた。  目尻の苦い涙を吸い取ってやると、もっと。 『きもち、い、い……キモチ、よぉ……ぁ、あァあっ……』  橘の言う、「気持ちいい」は、「恐ろしい」と紙一重。  僕は、身体の力を抜こうとそろそろと脚を開く彼を、ゆっくりと、じっくりと、揺さぶった。  僕の身体は、僕の男性器は、全て橘のために存在する。  父親の言うように、性欲処理の棒でいいのだ。  橘の心が、これ以上崩れないためにも。  だから小さな手を組み伏せ、橘のナカに押し入る瞬間の、恍惚とした征服感。  芳しい花の香りに覚える、甘ったるい陶酔。  それらを全て、無表情という鉄の仮面の下に押し込んだ。  そのうち、あの夜のことを思い出させて怯えさせないために、僕は長かった髪を切った。「なんで?」と聞かれたけれど、「邪魔だったから」と答えるしか他なかった。  セックスをする時以外では極力、彼との時間を過ごさないようにしようと、決めた。  彼の、心の安寧のためにも。  そんな風に、探り探りで過ごした1年だった。

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