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痛み──第154話

 ゆっくりと瞬きを繰り返して、橘を凝視する。口に出したつもりはなかったのに、全てにおいて理解の遅い橘が一体どうして。  首の裏が、ぴりりとひりつく。 『由奈のこと、好きなのか……?』  でも、そんな喜びに近い緊張は一瞬で瓦解した。 「──何故、僕が、一体どんな理由で、彼女を好きにならなければいけないんだ」 『いや、だっておまえ』 「黙れ」  橘の喉がひゅうと鳴った。目に見えて怯えさせてしまっている。昨日からずっとこうだ、けれども一度口に出してしまったものはひっこめられない。  それに勘違いされた内容そのものより、橘の口からあの女の名前が出てくること自体、耐え難かった。  仕方のないことだとはわかっている。  けれども、僕のモノにならない君が恨めしい。  僕のモノになってくれないのなら、もういっそのこと。  ──いっそのこと。 「本当に、君を見てると心底イライラするよ……あのまま孕ませてやればよかったな」  彼の手の痣に後悔を覚えた舌の根も乾かぬうちに、そんなことを言ってしまうこの口。全てが嫌になりそうだ。 『っ、そーかよ、イヤな気分にさせて悪かったな!』  でもこれはきっと橘にとって、大きな足枷になるだろう。  彼が僕の子どもを孕んでしまえば、彼はもう二度と僕から離れられない。けれどもそんなことをしたら、君は二度と僕と口を利いてくれなくなるかもしれない。  それは僕の方がイヤだ。  いつもチリチリとした険悪な雰囲気になってしまうけれど、まだかろうじて、会話の体は保てているのだから。  それすらも出来なくなったら、考えるけど。 「橘」  ねぇ、橘。 『なんだよっ、まだ言い足りねぇことあんのか』 「ああ、ある」    どさくさに紛れて、彼の細くて生白い手首に二度目の接触を図る。 「夏祭り、楽しみにしてるから」  それに、不意打ちに弱く、すぐに耳たぶを真っ赤にする橘がやっぱり可愛くて、どうしようもない。  誘いに乗ったのは牽制が目的。情報収集も目的。  でも、心からどうでもよかった夏祭りというイベントに珍しく浮き足立っている自分がいることも、確かだった。  たった数時間でも、たとえその他大勢の中であってもらもしかしたら彼の隣に並んで、屋台を回れるかもしれない。  僕の隣で、「つめてーな」なんて、舌を苺シロップで赤色にしてカキ氷を頬張る浴衣姿の君を想像するだけで、下半身が痛いぐらいに熱くなる。  まるで万年発情期のうさぎ……我ながら現金なものだ。  ──うわ、舌真っ赤じゃん、俺。  一番赤いのは君の唇だよ、橘。キレイな赤だ。  ──な、なんだよそれぇ、変なこと言うなよハズい奴だな。  そう? ほら、だって見て? 君の耳まで赤いもの。  ──バカ、見んなって!  なんて囁いたら、君は耳を咄嗟に隠してしまうかもしれないな。ぎゅっと唇を恥ずかしそうに噛んで。  そんな恋人、いや夫婦みたいな会話が、できてしまったりして。  妄想逞しく、期待に満ちた想像は膨らむばかり。    そして結局。  僕は、贔屓にしている呉服屋で、おすすめですよと持ち込まれた新しい浴衣を新調してしまったのだった。  夏祭りまで、あと一週間と、数日。

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