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痛み──第155話

 *  浴衣は、流水模様の雲の柄。  穢れをしらない透き通るような水が流れていく。僕という生に水を与えて育んでくれる、その細い身体。  どこまでも橘のイメージだった。  雲は……言わずもがな。  夏の雲を、彼は僕に見立たててくる時がある。昔から。 『うーん、なんでだろ……あっそうだ、ふてぶてしい感じ? ほら、どーんとでっかい感じがなんか神経図太そうっていうかさァ……おまえプライドたかそーだもん。なっ』 『いやあの、どーんと構えてる感じが、なんか神経図太そうっていうか、なんていう、か……』  決まって、神経が図太いという失礼極まりないことばかり言われている気がしないでもないけれども。  橘に対する僕の神経は別に太くない。むしろ極細だ。ちょっとの刺激で弾けんばかりに揺れてしまう。  毎日毎日、ギリギリの状態で引き延ばしているんだ。ましてやプライドなんてあってないようなもの。  でも自分に非がないことで人に謝ってばかりいる彼に、僕は謝罪の一つも、できた試しがない。  君の色に満ちたこの浴衣を着たら、少しは君と、まともに顔を合わせることができるだろうか。  少し他人の心の機微に疎く、無神経なところのある橘についつい当たってしまうこともなく。  なんだ姫宮、おまえ似合ってるじゃんなんて。  一度でいいから、笑ってくれるだろうか。  僕にも、昔みたいな笑顔を与えてくれるだろうか。  あの夏の日の、心のままに。  夏祭りまで、あと数日。  お手伝いの芳よしさんにアイロンをかけてもらって、和室の箪笥の前に釣るしておいた浴衣を、正座で眺める。  会場に着いたら、真っ先に君に声をかけよう。何を言えばいいのかな、そんなことを考えるたびにそわそわとしてしまい、目についた浴衣のほこりやシワを伸ばしまくった。  結局、僕は当日までほとんど、夜を眠ることができなかった。  *  僕は顔に似合わず体毛が濃い。  見えないとはよく言われるし、女の子に間違えられていた頃はつるんとしていたが、一日処理を怠ると随分と顎がざらざらし始める。  これはα性の濃い父の遺伝だ。  橘は見た目通り薄い。もちろん、ヒート期間中は剃る余裕もないので、3日、四日目ごろになると顎がごわつくが、僕ほどじゃない。  脛だって脇だって、ちょんちょんとしていて僕に比べたら可愛いものだ。  蟻んこである。  大学では、いつ橘に見られるかわからない。  彼の目にはいつも完璧な僕で映っていてほしくて、毎朝鏡を見て自分を整える。  今日は特に時間をかけて、念入りに顔を洗った。  うん、横顔も決まっている。  艶の入ったサラサラの黒髪も、どの角度から見ても完璧だ。  気合を入れて着付けをして、いざ赴く。 「──こんばんは、橘くん」  太鼓や盆踊りの音楽が流れ続ける会場。野菜共にお決まりの挨拶を返し、どうでもいい人間の隙間をかいくぐって、一目散に橘のもとへと向かう。  しかし、人前では話しかけてくんなと一刀両断されてしまった。  しかも僕は今橘に、睨まれている。  大方、僕に彼女を取られるんじゃないかなんて警戒しているのだろう。  ──金色の刺繍が入った帯締めを用意したのも、橘を意識してのことだったのに。  あろうことかあの女も、同じことを考えていたなんて。  橘の浴衣姿はよく似合っていた。破れ七宝は、輪の中心で人と人の縁を繋ぐという意味を持つ。まるで彼という存在を、そのまま体現したかのような柄だった。  お世辞抜きに、橘は会場にいるどの人間よりも輝いていた。  帯の色が黒かった。  偶然だろうけど、自分の髪色と彼の髪色を交換できたような気持になって、少しだけ気分が浮上した。  提灯の明かりで染まった彼のオレンジ色の頬は、とても色っぽく見えた。  汗に濡れて蒸れる、襟足のうねりも艶やかだ。  遠くからでも、何時間だって彼を眺めていられる。  大して価値もない別の女から情報を得るために近づいたけれど、やはり後ろが気になってくるりと振り向けば橘があの女と密着して、イチャついているところだった。  よりにもよって、かき氷を口に差し出された橘が、それに口をつけた瞬間を見てしまった。  しかも橘は、あの女の口の横についた食べカスを親指で拭い取ってやっていた。  気負うことも躊躇することもなく、ごく自然な動作で──嫌なものを見た。  橘と目が合いそうになり、髪を振りかぶる勢いで視線を外す。  誰にも聞こえないよう、歯ぎしりをした。  橘は別に同性愛者ではない。だからきっと、あれが彼の本来の姿なのだろう。  彼はΩ性の人間にはなったけれども、女性を愛することができる。  それに引き換え、僕は女だろうが男だろうが、人間だろうが動物だろうが、有機物だろうが無機物だろうが、橘しか愛せない。  父には、欲求不満ならほかの女を抱いてこいなんて尻を蹴飛ばされたけれど、できるわけがない。  シンプルに、橘以外に自身の雄が反応しない──そもそも勃起しない。  どうやら僕は、橘という人間そのものに頭をやられているらしい。  好いている、惚れている、そんな単純な言葉じゃ言い表せないぐらい、橘じゃなければダメだ。彼以外の男も女も一度たりとも抱ける気がしないが、橘なら抜かずの10発でも余裕でできる。  それこそラット状態であれば一晩中抱いていられる。  それは7年前に実践済みだ。  いや、一晩じゃ足りなかった。だからあんなことになったんだ。  子どもの頃でさえ、あれだ。今の僕が本気で彼を抱いたら、きっと橘の身体はバラバラに壊れてしまうだろう。  人並み以下の性欲は、橘が相手ならばサル並みに成り下がる。  だから、八つ当たりもかねて、橘の隣を陣取っている女を脳内のみで繰り返し八つ裂きにして踏み潰してやりながら、まさに自分の隣で何かをしゃべり続けている女と祭り会場から離れた。  橘の傍にいられない空間なんて、いても意味がない。    茹だる夏が、更に汗ばむ。  まだまだ酷暑には遠い初夏だというのに、最悪の気分だった。

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