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痛み──第156話

 ──で、この女の名前はなんだったか。  なに子? カス美とかか? まぁどうでもいいか、役立たずだったんだから。親友だからと言われていたから期待したのに、調理できそうな部分が皆無だった。  腐った野菜は軽く脅してみても怯えるだけで何も喋りもしない。  僕は、僕の知りえない橘のことを一から一億まで知りたいだけなのに、おんぶがどうとか、死ぬほど癪に障るエピソードを聞かされただけだった。  無意味すぎる時間は、もうほとんど虚無に近い。  もう、帰ってしまおうか。  今頃橘は、あの女と仲良く屋台巡りを堪能しているのだろう。手は、繋いだのだろうか、雰囲気のある提灯の下で見つめ合ってでもいるのだろうか。  透愛、由奈、とお互いに名前を呼び合って。  ──彼の隣の隣を歩くのは僕がよかった。  祭り自体はどうでもいい。橘に伝えたことは本音だ。こんな人が虫のようにわらわら集まってごった煮返している喧しいだけの空間、風情もクソもない。  不衛生だし、こんな汚い屋台で食事を取ろうとする人間の気がしれない。  でも、他でもない彼と一緒に楽しめるのなら話は別だった。  それができない自分の立ち位置が、もどかしくてたまらない。  おまえ、彼女いる? なにが結婚だよ、こんなの形式的なもんだろ。この際だから言うけどさ、俺に変な操とか立てなくてもいーんだからな。  いーって。もうお互い大学生なんだし、もっと気楽にいこうぜ?  気楽には気楽にだよ。大学生っぽく合コン行ったりさぁ。今日だっておまえ、パーティーに誘われてたじゃん。おまえのこと狙ってる子ぜってー多いし、可愛い子がいたらいいんだからな……しても。  なにって……セックスだよセックス。言わせんな。  俺そういうの別に気にしねぇし。  ──まぁ、ヒートんなったらヤルことはやってもらうけどさ。  言外に、好きなやつを作れと言われた。  バカだな、橘。そんなの君以外できるわけがないのに。  いや、馬鹿は僕の方か。  数日前まで薄っすらと残っていた君の手首の赤みだって、もうすっかり消えてしまっていたというのに。  せめて今日までは残っていてほしかっただなんてことを、性懲りもなく考えているのだから。  * 『あ、あのね、落ち着いて聞いてね』 「うん」 『ゆ、由奈が、暴漢に襲われたんだって……!』 「へえ、そうなんだ」  目の前の人間の唖然とした表情を受けて、ああそうか、と理解する。ここは心配するところだった。 「──ああ、大丈夫かな来栖さん。心配だね?」  眉を下げて、一般的に言われている「不安」の表情を形作る。「へぇ」と思ったのは本当だった。あの女、襲われたのか。  どこぞの男に犯されでもしたのか、それとも軽い怪我か、重症か、重体か、死んだのかこれから死ぬのか。  どれにしろ、橘は悲しむだろう。どんな言葉で慰めればいいか。  一人っ子の甘えたに見えて、なんでも自分の力で解決しようとしてしまう人だ。葬儀で気落ちしていたら少しは僕の肩によりかかってくれるだろうか。  その薄い肩を撫でて抱きしめてあげることは、許されるだろうか。 『ごめん、取り乱しちゃって、え、本当!? そか、由奈は大丈夫なのね……』  なんだ、無事なのか。何から何まで使えないな。 『で、橘はどういう状況なの? うん、うん──きゃっ』  橘。その一言に、微動だにしなかった糸が緊張で張り詰め、大きく揺れた。咄嗟に女の腕を掴む。 「橘がなに」 『え』 「橘がどうした」 『姫宮、くん?』 「橘がどうしたって聞いてるんだ」 『い、痛いよっ、姫──』 「うるさい。さっさと答えろ、橘は」  掴んだ腕に力を込める。肝が冷えた。冷えたどころではない、冷たすぎて足元がぐらぐらした。  このまま地の底まで、落ちていきそうな。 『く、わしくはわかんない、んだけど……橘が連れていかれたって、言』 「──会場のどこで!」 『っ……じ、神社の反対側でもめてるみたい!』  息、が。 「……っ」  ばっと女の腕を振り払い、その場を駆けだす。  走って走って、走った。橘の、恐怖に染まりきった発情時に近い匂いを辿りながら。  ──どこにいるんだ。そういえば、少し具合も悪そうだった。何か思い悩んでいるような。  ようやく見つけた鬱蒼と茂った木々の先で、橘は組み敷かれていた。  誰だ、僕の橘に触ろうとしている塊は。  汚らしい色の尻を半分丸出しにして、彼にのしかかって今まさに突き入れようとしている肉の塊。それが高校時代の後輩であったことは、目の前が真っ赤に染まったあとで判明した。 「ねぇ、君たちは何をしてるの?」  あばら骨は、人間一人当たり24本。  それが四匹、できない本数じゃなかった。    橘に止められる前に、一本残らずへし折ってやればよかったな。  ─────────  捺実だよ。

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