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痛み──第157話
「──橘、怪我は」
初めて自分から伸ばした手は、静かに振り払われてしまった。
*
二度と傷つけないと誓ったのに。
橘の足が、痛々しいぐらいに震えている。
『透愛、そんなに痛むの? じゃあ私も一緒に』
我が物顔で伸びてきた手を、振り払うだけで済んだのは奇跡だった。
「──あれ、今ぶつかっちゃったかな。ごめんね?」
誰の許可を得て橘に触ろうとしているんだ。
この女、この女、この女この女、この女──この女。なにが守ってくれただ、あの鼻水を垂らして橘に抱きついてしがみついていた子どもも、同罪だ。
こいつらのせいで橘は危険な目にあったのに。
それでも橘は誰も責めない。自分が余計なことをしたからだって、本気で思ってしまっている。
人前で差し出した肩には、簡単に腕が回ってきた。先ほどは手も貸すなと言わんばかりだったのに、相当辛いのだろう。
僕がもっと早くに気づいていれば、駆けつけていれば。
ギリギリで間に合うことができたという事実だけが、唯一の救いだった。
*
『いいから離せよ』
「転ぶぞ」
『ひとりで歩けるって……悪かったよ、悪態ついて。助けてもらったことはマジで感謝してる。肩も貸してくれてありがとな、迷惑かけた──じゃあ』
それなのに橘は、自分一人でなんとかしようとする。
僕に頼ろうとは微塵も思ってくれない。
「虚勢を張るな。この状態で一人で帰らせるわけがないだろう……こんなに震えているのに。またαの男に襲われたらどうするんだ、君ひとりじゃどうにもならないだろう。大人しく僕に抱えられてろよ」
吐き捨てるように言うと、橘の身体が先ほどの比ではないぐらい大きく震えた。
『──ッ、だから嫌なんだよ!!』
それは彼の、心からの叫びに聞こえた。
『笑えよっ……腰抜かしてまともに立ち上がれもしなかった腑抜け野郎だって……びびって、ろくに声も出せなかった負け犬だって、笑えよ!』
橘は、好きな女性の前で一人で立ち上がれなかった自分を惨めに思っているのだろう。
ちらりと彼の足を見る。
鼻緒がずれて脱げかけた下駄と、土に汚れた浴衣の裾。彼の足指にも泥がこびり付いて、形のいい爪の中に入り込み黒ずんでいた。
『ろくな抵抗も、できなかった! いやだしか、いえなかった。力いっぱい抵抗、できたはずなのに……おれ、おれは、なんにも、できなかった……!』
僕はそれを、彼が懸命に抵抗した証だと思うのに。
『どうせ俺はΩだよ! 弱い、Ω野郎だ……ちきしょう……ッ、ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう!!』
そんなことないのに。僕は、君ほど強い人間を知らないのに。
僕の手が汚れるなんて意味不明な論理を並べ立てて、あんな腐った男たちですら咄嗟に庇おうとしてしまう、愚かで優しい橘が、項垂れる。
その目尻からは今にも涙が零れそうだ。けれども泣いてはいない。
彼が生理的な涙を零すのは、ヒート中だけだった。
橘は強い男だ──あの男たちを罰することも含めて、これは自分の問題なのだと言い切ってしまえる男だ。
そんな風に、君を無理矢理Ω性にした僕ではなく。
自分自身のみをずっと責め続ける君という存在を。
『おまえに、わかるかよ、俺の、気持ちが……おまえだって、俺みてぇな奴みっともねぇって思ってんだろ……俺みたいなのが番だなんて、最悪だって……!!』
そうやって罵るのは、たとえそれが橘本人だとしても、許せなかった。
『な──っ、ん、ンッ……ん、ふ、ぅ……」』
いまだに震え続ける目の前の青年を、背の高い木に押し付けてその唇を塞ぐ。
強引に奪った橘の唇からは、甘い夏の味がした。焼きそばわた飴ラムネカキ氷、あの女と共有していた味そのものだ。
それらを全て僕の唾液で洗い流すくらいの勢いで、舌を絡め、深くまでねじ込む。
僕の乾いた唇は、橘の体液ですぐに濡れそぼった。
『は、はぁ……なん、だよ。慰めのつもり、かよ……』
それは、聞き捨てならない。
「──慰め?」
これが? 橘の肩に顔を埋めて、今度は僕が項垂れる。
「君は何もわかっていない。僕が……」
だって僕は、自分の鼻先までもが極限まで冷えてしまうくらいに。
「僕が、どれだけ……」
今こうして君が無事な姿を目にして、どれだけ……どれだけまともに息を、吸えているか。
『ひめみや? おい、重いって──うぉっ』
強く掴んだままの彼の手首を引いて、強引に歩く。
『ちょ、ちょっと待て! どこ行くんだよ……いた……っ』
今は夜で、暗闇だ。
僕と橘以外、ここには誰もいない。このまま彼を知らないどこかへと奪い去って、僕の中でくすぶる情の全てを余すところなくぶつけてしまおうか。
正直そんなことまで考えた──でも。
『いたいって! そんな早く歩けねぇんだってば……』
立ち止まる。
まず、橘の汚れた足に目をやった。次いで乱れた浴衣。適当に結び直されて今にも解けてしまいそうな帯。察しのいい者にはそうとしか見えないだろう、明らかな暴行未遂の痕跡が橘の身体には色濃く残っている。
──橘の兄も、こんな心境だったのだろうか。
しかもあれは、未遂ではなく既遂だった。僕に暴行され傷だらけになった彼を見て、彼の兄は今の僕と同じように、地面がガラガラと崩れ落ちていく絶望を味わったのだろう。
橘の腕を掴んでいた手から、力が抜けていく。
『ど、うした? ん……』
そっと手を伸ばし、彼の唇から溢れた唾液を拭えば、橘は反射的にぎゅっと目をつぶり肩を強張らせた。
ふるりと震える、薄い身体。
目を細める。別にショックは受けない。
事実は事実だと、理解するだけだ。
それに、これはいつものこと。橘は無意識のうちに、僕から離れようと身体をひっこめる癖がある。
連絡もせずに家に押し掛けたあの日、首に触れた時もそうだった。
特に今は僕と同種の男たちに襲われた直後だ、α性を合わせ持つ僕のことが、普段以上に恐ろしいだろう。
この状態の橘を、誰もいない彼の家に帰してしまっていいのだろうか。今日、彼の兄が僕の父と連れ立って出張に行っていることは把握済みだ。
僕にできることはなんだ。橘の心の平穏を、一体どう取り戻してやればいい。
──ああ、そういえば橘は花火を見たがっていたな。
穴場があると、知り合いの神主から聞いたことがある。
ここから少し横道に逸れたところだ。
それにあの女のことを……橘はおんぶした、らしい。
『……なにしてんの?』
僕は橘に背を向け、低く低く腰をかがめて後ろに手を伸ばす。は? と後ろで橘が露骨に戸惑う気配。
「乗れ」
誰かにこんなことをしたのは、初めてだ。
乗る乗らないのひと悶着の末、背負ったその身体。
僕との身長差は親指一本分の、6cm。
それでも橘の身体は薄くて軽くて。
誰よりも、あたたかかった。
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