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痛み──第158話
『ちょ、ちょっと待って、高いって』
「慣れろ」
素っ気なく言い返してはいるものの、僕の胸の鼓動はさっきから忙しない。
おずおずと、首にきゅっと回ってくる細い腕が、いじらしい。
*
密着した彼の腕が、異様に熱く感じられる。
落ちないようにというのが理由だろうけれど、彼の方から触れてくれているという事実が、こんなにも嬉しい。
橘の心臓の音が、背中越しに届く。
とくとくと、確かな生を刻んでいる。僕の傍で。
時折、ふっと首の裏にふりかかる柔らかな吐息。橘の──息。
それらの全てが、僕という命を構築してくれる。いっそのこと、君の吐き出す酸素のみを吸っていても呼吸ができる体に変異してしまいたい。
──もしも橘がいなければ、僕はここまで生きてこれなかったんじゃないだろうか。
じわじわと沁み込んでくる橘の濃い匂いで茹りつつある頭で、そんなことさえ考えていた。
「……君は昔からそうだな。他者を庇う」
『え?』
「小学校の頃、同級生を庇って蛇に噛まれたことがあっただろう」
『蛇? あ、あぁ……あったな。太田だ、太田。太田春政……なつかしいな』
橘と、ぽつぽつと話をした。
彼の小学校の頃のエピソードは、脳内で繰り返し思い出している。けれども決して擦り切れることはない。
そればかりか、呼び起こすたびに色鮮やかに、より一層鮮明になっていく。
もっとも、僕が覚えているのは君のことだけだけれど。
オオタ、ハルマサか。全く聞き覚えがないな。
自分のことだ。もう必要ないなと、僕の頭が自動的にその名前と顔を削除欄に突っ込んだのだろう。
いつもそうだ。
「これまで出会った人の名前と顔も全員、君の頭の中に入っているんだろうな」
『お前だってそうじゃん。さっきのカス野郎共だって、学校ではそこそこの付き合いしてたんじゃねェの。人の名前覚えるの苦手なおまえがちゃんと覚えてたぐらいだし』
「別に、苦手なわけじゃない」
『いや苦手だろーが。おまえ、今日一緒に遊んだみんなの名前言える?』
「……」
もちろんだ、と心の中で頷く。
死にぞこないの来栖由奈とカス美と君の友人である野菜がいっぱいいた。
「ほらみろ」
『違う。苦手じゃない。ただ、必要ないと僕の脳が判断しているだけだ』
「はぁ?」
わけがわからないとばかりに怪訝そうに声を荒げられたが、僕は生まれた時からこうなのだ。
自分が、本来であれば社会的に不適合と言われるであろう人間であるということも、他者との関わりを利害でしか測れない自分の異常性も、深く深く自覚している。
していたからこそ、有り余る己の才能で全てをカバーしていたのだ。別に、自慢にもならないことだけれど。
「他者からの評価というものは未来の自分に繋がる」
『……わっかんねぇ』
「だろうな。最も、もう記憶に残す価値もないからね。明日には破棄するよ」
『破棄って、なにを……?』
「彼らの名前を、記憶から」
『それ、は、やろうと思ってできんのか……?』
「君はできないの?」
『当たり前だろ!』
「ふうん」
やはり、橘と僕とでは根本的に何かが違うのだろう。
そんな彼がどうして僕の傍にいてくれるのだろうか。いや、元を辿れば傍にいるよう強制しているのは自分だが、そういうことではなく。
橘は大学や人前ではともかく、露骨に僕を避けたりしない。
今だってそうだ。しぶしぶではあるだろうが、こうしてとりとめのない会話にも付き合ってくれる。
僕と話をしていても、楽しくもなんともないだろうに。
「……確かにだ。彼らに襲われて生まれたての小鹿のようにぶるぶる震えていた君はクソださかったけれども」
『この流れでそれいうか? なんでおまえって一言多いんだろうな』
君に言われたくない。
『つかおまえがクソとか言うと違和感ありまくりだぞ──うわっ、おまえな、あぶねぇっての!』
橘の口から発せられる恒例のイラッに、わざと下から抱え直して背中の上で飛び跳ねさせてやった。
僕だって、橘の口調がこの7年間で自然と移ってしまっている自覚はあった。
クソだとかマジだとかヤバいだとかヤべーなだとか。でも。
「でも僕は、君を負け犬だとは思わない」
『……え?』
これぐらいは、伝えてもいいだろうか。
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