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痛み──第159話

「弱い人間だとは思わない。格好悪いとも、思わない」 『ひめ、みや?』 「君には勇気がある。現に、Ωとしてαに怯えてしまう本能をどうにかしようともがいていた……あれは誰にもできることじゃない。僕が来るまでよく耐えた」  これは今まで、胸の内のみで文章にしていたことだった。 『おまえ……姫宮か? え、本物の? 俺目ぇおかしくなってんのかな……なんで急にそんなキモイこと』  しかし、案の定ドン引きされてしまった──なんだよ、言わなきゃよかった。ド失礼にも訝しんでくる橘を落とそうとすると、逆にしがみつかれた。 『ごめん違う、うそうそ!』 「僕は別に構わないけど? 頭から叩き落とせば少しは君のズレた眼球も戻るかもしれないしね」  チクチクした返しになってしまったが、素直に話を聞いてもらえないのは、これまでの僕の尊大な態度が原因であることもわかっている。  だからこそ、思っていることの一つも上手く伝えられない自分が歯がゆい。  でも、目的地に着くまでまだ時間もある。橘に負担をかけないよう、ゆっくりゆっくり歩くつもりだったから。  今日は、せめてもう半歩だけ。 「……僕は、自分の容量は自分で決めるタイプだ。容量に応じて日々取捨選択している。それができる人間だったはずなんだ。はずなのに……捨て去りたくても、どうしても捨てられないものが、ある」 『すてられない、もの』 「ああ」 『──それ、なに?』 「なんだと思う?」  橘の返答を待つ間、僕は静かに緊張していた。 『なんだと思う、橘』  けれども、橘の答えは。 『……わかんねぇよ』  そうかと、自虐的な笑みが漏れた。失望ではない。諦めでもない。彼がわらかないのは仕方のないことだと、事実を事実として噛み締めただけだ。  僕が自分から、自身の理性の手綱を引き絞り続けているから。  でも時々、息が詰まりそうになる。  もっと心のままに彼と接することができたらどれほどいいか……と。  まあしかし、そうは思うけれども、今日は予想外に彼と軽い掛け合いを続けることが出来ている。 「だろうな。君のその貧弱な脳みそじゃ」 『殴ンぞ』 「落とすぞ」  ふくりと、背後で橘が頬を膨らませる気配。  今すぐ振り返って、君の顔が見たいな。  ざくざくと土を踏みしめる静けさの中、リィンリィンと響くコオロギと、けこけこと震える蛙の鳴き声。  下駄を鳴らすたびに、鼻先に当たる涼やかな風。  ──ああ、こんな時間はいつぶりだろう、初めてかもしれない。  夏の風情のおかげなのかな、橘と珍しく普通に会話ができているのは。  夏祭りなんて大したイベントじゃないと思っていたけれども、彼とこんな時間を味わえるのなら毎日だってあっていい。  一緒に、屋台を回れなくてたっていい。  かき氷の食べ合いっこだってできなくていい。  君の苺色に染まった舌を見れなくてもいい。  手を、繋げなくてもいい。  ただこうして、ボール一つ分以上近い距離で、二人で帰りたい。このまま君とくっついて、一つになって、どこまでも歩いていけたら──これ以上望めば、バチがあたるな。 「──君は僕と、何もかもが違うな」 『ホントにな』 「君はそういう人間だ」  だって君は眩しくて眩しくて、直視するのも躊躇ってしまうくらいなのだから。  いつも、僕は思っている。  君のことを諦められたらいいのにって。君のことを忘れられたらいいのに、いっそのこと嫌いになってしまえたら楽なのにって。  でも、そんなことはできないから。   「だから、だから僕は、君の──」  ぴたりと、口を閉じた。 『僕は君の、なんだよ』  ──まずい、今のは完全なミスだ。これは絶対に、彼に伝えるべき言葉じゃない。残りカスでもいいのだと、少しでも希望があるならと縋り付いてしまうこの情けない感情は。  橘を、困らせるだけなのだから。  でも、もしもいつか、今と同じ続く言葉を言えたその時、彼が笑ってくれたのなら……いや、それはありえないか。  なに言ってんだよと、引かれてしまうだろう。  気持ち悪ィこと言ってんじゃねえと、睨まれてしまうだろう。  誰がおまえなんかをって、今以上に嫌われてしまうだろう。  本当のところ、橘を困らせてしまうからと逃げを打っているだけで、僕は彼からの拒絶が怖いのだ。  僕は情けない。  橘にだけ、いつだって情けない。 「橘、首に腕を回せ。危ない。本当に落ちるぞ」 『……ん』  これ以上ボロが出る前に、橘の腿を掴む腕に力をこめて抱え直す。  あとはもう、無言で目的地を目指した。  軽いとはいえ、おぶっているのは18歳の青年だ。筋肉を隅々まで使う。  直前まで全力ダッシュをしていたこともあって、ぽたりと、ぬるい雫が頬と顎を伝い落ちた。  僕は今、橘に、「汗臭い」とは思われていないだろうか。  そんな些細なことばかりが気になって、しょうがなかった。

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