170 / 227
キレイな人──第170話
あの夏祭り以降、橘が僕を避けるようになった。
近づこうとしてもするりと逃げられてしまい、目も合わせてくれない。
世界がまた、白と黒に沈んでいく。
*
橘は、あの女とそれなりにいい関係を築こうとしているのかもしれない。
ヒートの時以外、僕は彼にとっての邪魔者だろう。
どうしたらいいんだ。
いっそのこと髪を伸ばしてみればいいのだろうか。
あの夜も、そのようなことを言いたそうな雰囲気だった。彼は、少年時代の僕の肩にかかるぐらいの髪の長さが、お気に入りだったのだろうか。
──子どもの頃は、僕が女の子みたいに見えていたからか?
けれども18歳になった今、いい大人の男が髪を伸ばすのはどうなんだ。自分で言うのはなんだが、似合わなくはない……とは思う。
自分の美醜には大して興味がないけれど、僕は顔が美しい。これは自慢ではなく事実として。だからこそ自身の価値を高めるための活用方法として、柔和な「にっこり笑顔」を生み出したのだ。
それに、背もそこそこある。喉ぼとけもしっかり突き出ているし、肩幅や、腕や足の長さや、腿の太さも橘よりはある。
お互い細身の部類には入るだろうが、猫のようにふにゃふにゃしている橘よりも、僕は体格がいい。
橘は僕に額を見下ろされるのが悔しいのか、「俺の方が高くなった、かも」なんて言いながらぴょこぴょこ背伸びをしていた時期も、あった。バカ可愛い。
でも残念ながら、腰の位置は僕の方が確実に高い。確実に。
と、まぁ、僕はα性として生を受けたにしては、そこまで高身長というわけではないのかもしれない。けれども普段の恰好をしていて、女性に間違えられることは今は無い。
けれどももしも、橘がそれを望んでいるのだとしたら。
彼が僕に、いわゆる女性性というものを求めているのならば、僕の最後の縋り所はそこしかない。
考えに考えて、煮詰まった。
一般的に意見が聞きたくて、講義の時、右か左かどちらかに座っていた野菜に聞いてみた。「あいかわ」だかなんだか、男だっけ女だっけ、それすらも忘れたな。
もちろん変じゃないとは言われたけれど、本来であればこれは本人に聞くべきものだ。
でも今は、それすらもできないのだから仕方がない。
橘が、僕から離れていく。
いつものように、ふらりと橘の家に寄る。
けれどもやはり、影しか見えない。相変わらず彼の兄によって睨まれ、カーテンで遮断されてしまう。
過去に縋るように、煙草の本数が増える。こんなニセモノじゃなくて本物の橘の唇を吸いたいのに。
見かねた父から与えられた仕事に没頭しても、思い浮かぶのは橘の顔ばかり。
もう笑顔なんて、久しく見ていない。彼が他人に与えるものすらだ。大学で顔を盗み見ようとしても、友人のために上がる口角を、橘は髪でささっと隠してしまう。
徹底的だ。子どものころは心の安寧となっていた双眼鏡を使っても、もはや無意味だった。
髪をかき上げ、灰皿が盛り上がるくらい煙草を消費し、煙を肺いっぱいにまで吸い込み、口の中でしばらく蒸かす。
そして右手を、橘を想って疼き続ける下肢へと伸ばす。
彼のかつての香りを思い出しながら達する、一瞬の陶酔。
惨めで辛い、悪循環。
『い……いいってば──近づくな!』
食堂に隣接するカフェで、少し顔を覗こうとしただけで全力で拒否されてしまった。
肩を、露骨に押しのけられた。まさかここまでされるとは思っていなくて、後ろに少しよろめいてしまった。
橘はもう、僕との些細な触れ合いすら嫌みたいだ。
橘を見かけた瞬間、条件反射でさっと手にしたグラニュー糖の袋。何年前からか、これのみならず、シロップすらも大量にコーヒーにぶち込んでいた橘を見た時は本気で正気か疑った。
「君は正気か?」
『なんだよ失礼な奴だな。甘いとうまいじゃん?』
「君の味覚が終わっていることはよくわかった」
『な、なんだよ、いーだろ別にィ。好みってもんがあんだよ。あー……おまえも飲んでみる?』
「──君みたいに太るのはごめんだね」
『はぁ? 俺太ってねーし!』
「そう? さっき重かったよ」
『な……』
ヒートが終わるまで、散々僕の上に乗って乱れたくせに──絶景だったな。
無神経にも、僕にガラスコップを差し出してきた彼に、そんなことを吐き捨ててしまったぐらいだ。
だって、橘が唇をつけたコップを彼の目の前で使ったら、きっと動揺して手がブルブル震えて落として割ってしまう。
そんな醜態絶対に晒せない。
橘の前ではカッコイイ僕でいたい。
でも。
この日、カフェのテーブルに置いた砂糖を、彼は使ってくれただろうか。
離れたところに座ったから、確認できなかった。
─────────
推しの使用したコップは、震えますよ。
ともだちにシェアしよう!