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キレイな人──第170話

 あの夏祭り以降、橘が僕を避けるようになった。  近づこうとしてもするりと逃げられてしまい、目も合わせてくれない。  世界がまた、白と黒に沈んでいく。  *  橘は、あの女とそれなりにいい関係を築こうとしているのかもしれない。  ヒートの時以外、僕は彼にとっての邪魔者だろう。  どうしたらいいんだ。  いっそのこと髪を伸ばしてみればいいのだろうか。  あの夜も、そのようなことを言いたそうな雰囲気だった。彼は、少年時代の僕の肩にかかるぐらいの髪の長さが、お気に入りだったのだろうか。  ──子どもの頃は、僕が女の子みたいに見えていたからか?  けれども18歳になった今、いい大人の男が髪を伸ばすのはどうなんだ。自分で言うのはなんだが、似合わなくはない……とは思う。  自分の美醜には大して興味がないけれど、僕は顔が美しい。これは自慢ではなく事実として。だからこそ自身の価値を高めるための活用方法として、柔和な「にっこり笑顔」を生み出したのだ。  それに、背もそこそこある。喉ぼとけもしっかり突き出ているし、肩幅や、腕や足の長さや、腿の太さも橘よりはある。  お互い細身の部類には入るだろうが、猫のようにふにゃふにゃしている橘よりも、僕は体格がいい。  橘は僕に額を見下ろされるのが悔しいのか、「俺の方が高くなった、かも」なんて言いながらぴょこぴょこ背伸びをしていた時期も、あった。バカ可愛い。  でも残念ながら、腰の位置は僕の方が確実に高い。確実に。  と、まぁ、僕はα性として生を受けたにしては、そこまで高身長というわけではないのかもしれない。けれども普段の恰好をしていて、女性に間違えられることは今は無い。  けれどももしも、橘がそれを望んでいるのだとしたら。  彼が僕に、いわゆる女性性というものを求めているのならば、僕の最後の縋り所はそこしかない。  考えに考えて、煮詰まった。  一般的に意見が聞きたくて、講義の時、右か左かどちらかに座っていた野菜に聞いてみた。「あいかわ」だかなんだか、男だっけ女だっけ、それすらも忘れたな。  もちろん変じゃないとは言われたけれど、本来であればこれは本人に聞くべきものだ。  でも今は、それすらもできないのだから仕方がない。  橘が、僕から離れていく。  いつものように、ふらりと橘の家に寄る。  けれどもやはり、影しか見えない。相変わらず彼の兄によって睨まれ、カーテンで遮断されてしまう。  過去に縋るように、煙草の本数が増える。こんなニセモノじゃなくて本物の橘の唇を吸いたいのに。  見かねた父から与えられた仕事に没頭しても、思い浮かぶのは橘の顔ばかり。  もう笑顔なんて、久しく見ていない。彼が他人に与えるものすらだ。大学で顔を盗み見ようとしても、友人のために上がる口角を、橘は髪でささっと隠してしまう。  徹底的だ。子どものころは心の安寧となっていた双眼鏡を使っても、もはや無意味だった。  髪をかき上げ、灰皿が盛り上がるくらい煙草を消費し、煙を肺いっぱいにまで吸い込み、口の中でしばらく蒸かす。  そして右手を、橘を想って疼き続ける下肢へと伸ばす。  彼のかつての香りを思い出しながら達する、一瞬の陶酔。  惨めで辛い、悪循環。 『い……いいってば──近づくな!』  食堂に隣接するカフェで、少し顔を覗こうとしただけで全力で拒否されてしまった。  肩を、露骨に押しのけられた。まさかここまでされるとは思っていなくて、後ろに少しよろめいてしまった。  橘はもう、僕との些細な触れ合いすら嫌みたいだ。  橘を見かけた瞬間、条件反射でさっと手にしたグラニュー糖の袋。何年前からか、これのみならず、シロップすらも大量にコーヒーにぶち込んでいた橘を見た時は本気で正気か疑った。 「君は正気か?」 『なんだよ失礼な奴だな。甘いとうまいじゃん?』 「君の味覚が終わっていることはよくわかった」 『な、なんだよ、いーだろ別にィ。好みってもんがあんだよ。あー……おまえも飲んでみる?』 「──君みたいに太るのはごめんだね」 『はぁ? 俺太ってねーし!』 「そう? さっき重かったよ」 『な……』    ヒートが終わるまで、散々僕の上に乗って乱れたくせに──絶景だったな。  無神経にも、僕にガラスコップを差し出してきた彼に、そんなことを吐き捨ててしまったぐらいだ。  だって、橘が唇をつけたコップを彼の目の前で使ったら、きっと動揺して手がブルブル震えて落として割ってしまう。  そんな醜態絶対に晒せない。  橘の前ではカッコイイ僕でいたい。  でも。  この日、カフェのテーブルに置いた砂糖を、彼は使ってくれただろうか。  離れたところに座ったから、確認できなかった。    ─────────  推しの使用したコップは、震えますよ。

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