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キレイな人──第175話

 だって彼が僕のモノになってくれないのなら、誰のモノにもしたくない。殺してしまえれば、もう橘は僕以外を見なくなる。  今の橘はどんな風に僕に笑いかけてくれるんだろうなんて、毎日想像しなくてもいい。  僕を見てくれない橘が喚きたくなるほど憎い。憎くて憎くてしょうがない。  けれどもそれ以上に恋しい。  橘のうなじに刻み付けた番の証は、僕にとっての罪の証だ。彼を一生手に入れることはできないという、罰そのもの。  それでも橘が恋しい。彼がほしい。  こんな途方もない、終わりの見えない感情が一生僕の中で蠢き続けるのかと思うと、背筋が氷水に浸されたように寒くなる。  橘を番にしたことを後悔はしていない。しちゃいけない。  けれども間違った。橘はあんな形で手に入れるべき人じゃなかった。  でも、それでも。  たとえこの関係が僕の過ちで、愚かな間違いだったのだとしても。 「は……はは……まちがい、かよ……俺たちの関係は。なんだよ……おれをこんな体にしたのはおまえのくせに……あん時おまえが、理性総動員させて、自分を抑えてたら、こんなことにはっ……!」  橘の苦悶に満ちた絶叫に、こうして胸を打たれていても。 「そうすればおまえはっ、おまえだって……今頃っ」  僕は。 「無理だよ。何度過去に戻ったとしても、僕は同じことをするよ」  おぞましいことに、たとえあの夏を何度繰り返したとしても、迷わず彼を犯すだろう。  これは憶測でもなく、事実だった。  僕は何度だって理性を本能で踏み潰す選択を取る。そう、確信している。  あの日躊躇なく踏み殺した、一匹の蝉のように。  僕は橘を壊す。 「大人だって呼んでやらない。職員室にも駆けこまない。わき目もふらずにただ君を追いかける」  橘に出会わなければよかったのだろうか。そうすれば、橘に心を奪われることもなかった。  橘がパニックを起こす頻度は初期に比べて少なくなったが、ゼロになったわけじゃない。  僕は、傍にいるだけで君を苦しめてしまう自分が嫌いだ。  僕と出会わなければ、君だって僕に好かれずに済んだのに。  君の未来はきっと、輝いていたはずなのに。  そのうち好きな女ができて、その女と家庭を築いて、良き夫となり良き父親になる。君は、そういうことができる人間だ、僕とは違って。  そうだ。そもそも橘なんて図々しくて無神経で頭だって悪いんだ。本来であれば僕は君なんてまったくもって好みじゃない。  むしろ思考から弾き出していい存在のはずなのに。  それなのにどうして、橘しか見えない。  粉々に壊れてしまった天秤の代わりに、橘だけがいる。  ──橘は可哀想だ。僕なんかに目をつけられて。 「何度だって、何度だって。どんな邪魔が入ろうが、誰に憎まれようが、たとえ君が地の果てにでも逃げ込もうが、その口を塞いで手足を縛ってあの部屋に引きずり込む。そして二度と扉が開かないように鍵をかけて、君の身体に僕という存在を叩きこむ」  もしも7年前、彼の手を取って彼の望む「友達」とやらになれていたら、この救いようのない関係は変わっていただろうか。  αとΩではなく、αとβとしての関係を築いて……それこそ、彼の望む「仲直り」とやらをしていたら。  いや、どちらにしろ僕は、彼の「友人」という枠組みに収まりきってしまうことに、満足感は抱かなかっただろう。  どんな手を使ってでも、この人を手に入れようとしていたに違いない。  橘と築き上げることができたかもしれない「友情」を、木っ端みじんにぶち壊してでも。  ──おれは、樹李のものです。  橘に強制的に言わせ続けたあの言葉が、僕の中での救済であり、地獄だった。 「何度だって君を探して、犯しにいくよ……」  これが恋か。  これほどまでに禍々しく、ドロドロと煮えたぎるような情念が恋なのか。 「ああ、でも次は目を潰すかもしれないな。僕以外をその目に映さないように。喉も潰せば僕以外と会話もできなくなるね。それとも両足を折ってしまおうか。そうしたら君はどこにも逃げられない。僕の傍にずっといる」 「……な、に」  ──こんなのもう、始まる前から絶望的じゃないか。  Ωは番とセックスできなければ狂い死ぬらしいが、僕だって橘に触れられなくて狂い死にしそうだ。君が好きだ。好きで好きで狂おしい。  想いを吐露できないこの喉を掻きむしりたい。  吐き出せない言葉が石となって詰まり、声が裏返り、掠れる。  限界が近いのだと、自分でも深く自覚していた。 「君は笑わなくなったね、あの日から。でも、それでも……」  橘を手に入れたと錯覚できた、あの夏に戻りたい。二度と開かないようあの用具室に鍵をかけて、死ぬまで橘と二人きりで、あの狭い空間で生きていきたい。  強く目を閉じて夢のような空想に浸る。  決して叶うことは、ないけれど。 「君を、あの夏に閉じ込められたらよかったのに……」  せめて、数秒でもいいから触れてみたくて伸ばした手は、やっぱり払いのけられてしまった。  頬に残る、君がつけてくれたひっかき傷。  いつもであれば嬉しいけれど、今はこんなにも痛い。 「──僕が怖い?」  ああ、見たくなかったな。僕の感情の切れ端に触れて、恐怖に歪む君の顔なんて。 「それも、知ってるよ」  僕も、僕が怖いよ、橘。  限界はもう、すぐそばだ。

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