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キレイな人──第176話

 それでもまだ、彼がキレイなのを知っているのは僕だけだったはずなのに。 『透愛はね、時々……綺麗、なの』 「──キレイ?」  この女はそんなことを言ってしまえるから。 「本当に、好きなんだね。橘くんのこと」 『うん、好き……大好きなの』  僕が何年も何年も何年も何年も言いたくて言えないでいるそのセリフを、この女は簡単に言ってしまえるから。  橘はこの女を受け入れるのだろうか。抱くのかな。  ──なら、その前に思い知らせてやろうか。 「そっかぁ。でもね来栖さん、橘くんは確かに可愛いし優しいしカッコイイし王子さまみたいだけど……彼、僕の前では女のコみたいなんだよ?」  見たくもない女の顔を、上から覗き込む。  近くで見ると余計に肌が汚いな、腐臭がする。 「ふふ。来栖さんには是非、聞かせてあげたいなぁ」  触りたくもない女の肩を掴み、じりじりと力を入れる。  この女の身体を橘が今から抱きしめるのかと思うと、骨ごとべきべきにへし折ってしまいたくなった。  ただの血と肉の塊にしてやったら流石の橘でも気持ち悪く思うかな。  けれどもここは大学だ、人前だ。  それにこの女は、他でもない橘が恋をしている相手だ。  僕にとってはこの世から跡形もなく消し去ってやりたい生き物でも、橘はこの女を大事に思っている。  だからできない。こいつを殺せば橘をきっと傷つけてしまう──また、僕の勝手で苦しめてしまう。  張り詰められた細い細い己の理性を繋ぎとめるために、ラインストーンが輝く女の靴を踏みつけた。  僕が、知らないとでも思っているのか?  橘が前に褒めていたレース柄のパンプスを履いてくるなんて、とんだ茶番じゃないか。  おまえじゃ、橘を満足させてやることだってできやしないくせに。 「橘が僕の下で、どんな声で鳴くのか。ちょうどいい機会だ。せっかくだから、来栖さんも知らない彼のことを教えてあげようか。今、ここで」  思い知れよ。 「橘の中ってね──女のコ以上に、柔らかいんだよ?」  おまえとは、比べるのも烏滸がましいくらいにな。  * 【おまえ今どこにいる】  初めて橘から送られて来たメッセージに、親指の爪を噛む。  力を入れ過ぎてパキンと横にヒビ割れた。この7年間で橘のことでイライラすると噛み癖がついてしまったが、この癖は一向に治る気配がない。  どこにいるかだって? 文面自体から、怒りに満ちていることが読みとれる。  どうせあの女に泣きつかれて、僕に怒り狂っているのだろう。  何度も掛かってくる電話さえも煩わしくて、電源ごと切ってやった。  7年前と同じだ。あの時は橘の居場所がわからなくなるよう電源を切ったけれど、今は彼から逃げるために落とした。  自分で、自分の感情のコントロールが効かない。  もう無理だった。抑えることは不可能だった。 「──立てよ、姫宮。それとも、俺にやられっぱなしのか弱いお姫さまか? みんなに守ってもらわなきゃ反撃の一つもできないってか? このクソ野郎」  切れた口の端から、ぽたりと赤が垂れる。 「そんなのぜんっぜん……おまえらしくねえんだよ!!」  目を見開く。唇が戦慄いた。  ──僕を、僕らしいと言ってくれたのは君だったのに。  誰のせいで、こんなことになっていると思っているんだ。  そうして僕はついにこの日、自身に架した誓いを破った。    僕の中の獣が、嵐を切り裂いて橘に牙を剥く。

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